あたたかい花


 ピピっとキッチンタイマーの音が鳴って、ボクは体温計を確認する。
 デジタルなんてシャレたものじゃなくて水銀の体温計だ。
 37.5度。微妙な数字だった。
 3学期の期末テストが終わるのと同時に熱が出てしまって、昨日も今日も学校をお休みした。
 昨日よりは熱が下がってるから、明日は学校に行けるだろうか。
 別に不摂生してるつもりはなかったんだけど、今回のテスト範囲は苦手な分野が多かったりとか、バイトも、おじさんはテスト勉強が大変なら休んでいいって言ってくれてたんだけど、このごろ何かと物入りだったから収入を減らすわけにはいかなかった。
 それで普段よりも睡眠不足だった自覚はある。
 そこまでして頑張ったのに、もうすでにテスト中から体調はあまりよくなくて、特に後半に行われた理科とか芸術は全然集中できなくて最悪だった。
 昨日のうちにテストの結果は貼り出されてると思うんだけど、それを考えると憂鬱だ。
 別に結果が悪いこと自体は気にしてないんだけど、あれじゃ補習は確実だ。
 このまましばらく学校を休んでいたい。でも。
「……あー、たいくつー」
 お布団にくるまっているのにだんだん飽きてきたボクはわざと大きめの声で呟いた。
 誰もいないから返事は帰ってこない。
 普段は大嫌いな授業だって、今は数学だろうがなんだろうが受けても構わないくらい暇だった。
 どうせ聞いてても絶対わからないんだけど、なにかすることがあるなら今は何でもいい気がしている。
 それに、学校を休むんだったら自動的にバイトだって行けなくなる。
 時給をもらって働くボクにとって、働く時間が減るというのは自動的に収入が減ることを意味する。
 そろそろ復活しないとまずいんじゃないだろうか。
 バイトのことを考えるとなんだかそわそわしてしまって、ボクは勢いよく体を起こす。
 ずっと寝てたから目もさえてしまったし、漫画も大体読んでしまった。
 立ち上がって、そのついでに鏡を覗き込んだら、髪の毛が寝癖でぶわっと膨らんでいる。ちょっと笑ってしまった。
 いくら病人だからといってもこれはないかもしれない。
 そういえば、昨日は熱が高くて体がだるかったからお風呂に入れなかったんだった。
 厚着して寝てたせいで汗をかいてしまっていたからそろそろシャワーを浴びたりもしたい。
 普段は昼からシャワーを浴びたりはしないんだけど、お兄ちゃんがいたら絶対何が何でも寝てろって言われちゃうから、出かけている今がチャンスだ。
 タンスから畳んだ下着やパジャマを取り出して、鼻歌を歌いながらお風呂場に向かった。


「ふうー、さっぱりした」
 一人でいるとつまんないから、さっきからつい独り言が出てしまう。
 お風呂場から出て、ボクはコップにくんだ水を一気飲みした。
 ひんやりした水がおなかの中に落ちていく感じがする。そういえば寝てたから朝から何も食べていない。
 昨日はバイト番長が来てくれてうどんを作ってくれたんだけど、今日は来れないみたいだから自分で何か用意しなきゃ。
 お金にもうちょっと余裕あったらお兄ちゃんに何か買ってきてもらうんだけど。
 とりあえず梅干しはあるし、おかゆでも作ろうかな。
 そんなことを考えながら冷蔵庫の中身を見ていると、玄関のチャイムが鳴る。
「はーい?」
 誰だろうか。
 お兄ちゃんの知り合いだったら一旦帰ってもらわなきゃな、なんて思いながらインターホンに向かった。
『穂刈です』
 顔の見えないインターホン越しでも穂刈くんが緊張した様子なのがわかる。
「え、どうしたの?」
 穂刈くんがうちに来るなんて思ってなかったからボクは何度も瞬きをした。
 今年のお正月には年賀状を交換したから、それでうちの住所はわかってるんだろうけど、どうしたんだろう。
「とりあえず玄関行くから待ってて、あ、ボクパジャマだけど、気にしないでね!」
 あんまり待たせちゃいけないから、一気にそれだけ言ってインターホンを切った。
 走って玄関のドアを開けると、気まずそうな顔をした穂刈くんが立っていた。
 坂城くんとかもいるのかと思って後ろを覗き込んだけど、誰もいない。どうやら一人みたいだ。
「一文字さんが休んでるって聞いたから、お見舞いに来たんだ」
 穂刈くんは照れているのかぶっきらぼうにそう言って、ボクに白いビニール袋を差し出す。
「休んでるところに急に来てごめん。一文字さんが出るとは思わなかったから。本当は家族の人に渡してすぐ帰るつもりだったんだ」
 お見舞いの品、という奴だろうか。
 普段は健康優良児で通っているから、なんだかこういうのってとてもうれしい。
「わあ、ありがとう! 中身見てもいい?」
 ビニール袋の中には濃いオレンジ色のガーベラの鉢植えが入っている。
 部屋に飾ったら一気に元気が出そうな色で、すごく気に入ってしまった。
「かわいい! 本当にボクがもらっていいの?」
「俺の家、花屋だから」
「そうなんだ」
 穂刈くんからの年賀状に書かれていた住所を思い出す。
 具体的な番地まで覚えてるわけじゃないけど、確かにあのあたりには昔からお花屋さんがあったから、たぶんそこが穂刈くんの家なんだろう。
 穂刈くんも家を手伝ったりするんだろうか。
 すごく愛想がいいってわけじゃないけど、花束を丁寧に作る穂刈くんの姿は簡単に想像ができた。
「……本当は、病気の人に鉢植えってのは良くないんだけどな」
 穂刈くんが小さい声で付け加えた。
 その話はボクも聞いたことがある。『ねつく』からよくないというやつだ。
 やっぱりお花屋さんで育っていると、椿はダメだとかそういうマナーは気になるのかもしれない。
「あはは、でもボクはあまり気にしないから大丈夫だよ」
 ボクはそう笑い飛ばしたんだけど、穂刈くんが「違うんだ」と首を振った。
「うん?」
「一文字さんはもうちょっと休んだ方がいいんじゃないか、と思ったんだ」
 そんな事を言われるなんて思ってなかったから、ボクは目を見開いた。
「そうかな……ボクの顔、そんなに疲れて見える?」
 でも、ボクはたった二日休んだだけでそわそわしているのに。
 もっともっと、やらないことがたくさんあるのに、休んでなんかいられないと思っている。
「一文字さん、普段からバイトとかで頑張ってるだろ? 今は顔色もよくなったけど、テスト前は本当に大変そうだったぜ」
 穂刈くんの顔はいつも通り真剣だ。本当にボクの事を心配しているのだろう。
 今までいろんなことを頑張ってきて、周りの人もボク自身も頑張るのが当然だったから、こういう風に言われるのは初めてかもしれない。
 真剣な目に見られているのが苦しくなって視線をそらす。
「……そっか」
 目をそらしても穂刈くんの視線を感じて、自然な顔でいることができない。
「…………」
 穂刈くんもボクが喋らないので黙っている。ちょっと気まずい。
「ああ、そうだ、せっかく来てもらったんだから、お茶でも飲んで行ってよ、今用意するからさ!」
「いや、でも、」
 返事を聞く前にボクは家の中に入る。遠慮しながらも穂刈くんがついてきてくれる気配がした。


 お湯を沸かして、急須とお茶碗を温める。そしてお茶っ葉を必要な分だけ茶筒の蓋に取る。
 ……ああ、どうしよう。
 いつも通りの手順でお茶を入れていても、穂刈くんの真剣な眼差しを思い出してしまって今更どきどきしてきた。
 真剣に心配されているのはわかるんだけど、それに対してボクはどう返していいのかよくわからない。
 迷惑とかでは全然なくて、すごくうれしすぎて、胸が詰まって息苦しくなるほどだった。
 だから目をそらしてしまった。
 あ、今自分は逃げてしまった、と思った。穂刈くんは気を悪くしただろうか。
 ちょうどカステラがあったのでそれも切って、緑茶の入った茶碗と一緒に客間へ持っていく。
「お待たせ」
 穂刈くんが行儀よく座布団の上に正座しているのを見て笑みがこぼれた。やっぱり剣道部だから正座にも慣れているんだろう。
「甘いもの、平気だよね?」
 一応聞いてみたけど、そういえばバレンタインのチョコレートも受けとってくれたんだったって思い出した。
「ああ。ありがとう」
 カステラを食べ始める穂刈くんの向かいに座って、ボクも一緒にお茶を飲む。
 バレンタインのことと一緒に、穂刈くんが本命チョコをもらっていた光景も思い出してしまう。
 ボクはさりげなくカレンダーを見る。
 学校を休んだからあまり日にちの感覚がなかったんだけど、今日は3月14日だった。
 あの子にはなんて返事をしたんだろう。
 穂刈くんのことだから、少なくとも返事をしないままってことはありえないはずだ。
 気になったけど、そんなこと聞けるわけない。
 ボクはできるだけ元気に見えるように笑顔を作った。
「ガーベラ、本当にありがとうね。でも、家がお花屋さんだからって持ってきちゃってよかったの?」
「ああ、一応ちゃんと自分の金で買ったものだから。……今日はホワイトデーだから本当は甘いものがいいのか迷ったんだけどな」
 穂刈くんからホワイトデーの単語が出てきてドキっとする。
 ボクはそのことを気付かれないようにと祈りながらお茶椀の飲み口を撫でた。
「そ、そうなんだ、じゃあ、あの鉢植えはお見舞いの品兼ホワイトデーのお返しって事なんだね」
「ああ。言うのが遅くなってすまん」
 少し気まずそうな顔で穂刈くんが頭を下げる。別にそんなことはどうでもいいのに。
「みんなお花でお返ししたの?」
 こんな事聞いて、どうしようというのだろう。
 本命チョコを渡していた子の、きゃしゃな後姿が頭にちらつく。
 変な質問をしてしまった事に少し焦ったけど、あの場面を見られたなんて思ってない穂刈くんはちょっと顔を赤くしただけで普通に答えてくれた。
「いや……一文字さんだけだ。さっきも言ったように、ゆっくり休んでほしかったから鉢植えにしたんだ」
「そっか」
 あ。うれしいかも。
 胸がぎゅっとつかまれた感じがする。
 ちゃんとボクのことを考えてプレゼントしてくれる贈り物って、こんなに胸をあたたかくしてくれるものなんだ。
「本当にありがとう。感激しちゃったな、ボク」
 でも、穂刈くんの気遣いが嬉しい一方で、やっぱり本命チョコの子にはどう返事したのかが気になってしまう。
 だって、返事次第ではもう穂刈くんはあの子の恋人になってるってことだ。
 こんな所でお茶飲んでていいのかな。
 茶碗を持つ穂刈くんは普段通りの様子に見えるし、あの穂刈くんが女の子と付き合うことになったら、もっとそわそわしたりするんじゃないだろうか。でもよくわからない。
「なんだ?」
 ちらちら観察していると、さすがに穂刈くんも不思議に思ったのかボクに聞いてくる。
「う、うーんと……」
 気になる気持ちと、さすがに立ち入ったことを聞くのはよくないって気持ちがあったんだけど、結局聞きたい方が勝ってしまった。
「ごめんね、穂刈くん! 実は先月、見ちゃったんだ、ボク。穂刈くんが女の子にチョコをもらってるの」
「そ、そう、だったのか……」
 穂刈くんがあの時みたいに顔を真っ赤にして、カステラをフォークで細切れにし始める。食べ終わってから切り出せばよかった。
「それで、もしあの子と付き合うことになってたんだったら、こんなとこまで来てもらっちゃってまずかったかな、って思ってさ。だってほら、嫌だろ、ボクのせいで穂刈くんたちがケンカになったりしたら」
 早口で一気に言い終えて、気まずさをごまかすみたいにしてお茶を飲む。
 言ったことは全くの嘘ではなかったけど、100%本当でもなかったから、盗み見してたことも加えてなんだか罪悪感があった。
「……あの子には……付き合えない、って言った」
 穂刈くんはその時のことを思い出したのか、眉間の皺をさらに深くして言った。辛そうな顔だった。
「そうなんだ」
 どう相槌を打ったらいいのかわからなくてそれだけ返事をした。
 会話が途切れちゃうかなと思ったんだけど、穂刈くんも誰かに話しちゃいたかったのか、続けて言う。
「匠には、せっかくだから付き合っちゃえって言われたんだが……俺、そんなのよくわからないから……それで付き合ったって、お互い辛くなるだけだろ」
 とぎれとぎれに言葉を選びながら、誠実に話す姿はあの子の前でも同じだったんだろう。
 その光景を想像したらボクまでなんだか切なくなった。
「そっか……」
 でも、こんなこと口が裂けても言えないけど、穂刈くんがあの子と付き合ってないことにボクはほっとしている。
「お茶、もっと飲むかい? おかわり入れてくるよ」
 ほっとしてるだなんて気付かれたら困るし、これ以上この話を続けるのは穂刈くんも辛いだろう。
 ボクが立ち上がると、穂刈くんは少し考えた後にお茶碗を差し出してきた。
「うん、じゃあちょっと待っててね」
 お茶のもう一杯ぶんくらいは一緒にいてもらえそうだ。


「遅くなっちゃったね」
 そのあとは普通に学校の話をしながらお茶を飲んだ。
 穂刈くんによると、ボクは補習ではなかったみたいだけど、やっぱり赤点はあったみたいだった。
 理数系は穂刈くんはそこそこ得意みたいだから、今度教えてもらう約束もした。
「体調悪いのに邪魔したな」
 穂刈くんは背を向けて靴を履きながら答えた。なんだかうちの玄関で穂刈くんが靴を履いてるのって変な感じ。
「ううん、全然。それよりも引き止めちゃって悪かったなって思って」
「部活がある日はいつもこんなもんだから」
 穂刈くんが出るのにあわせてボクも外に出る。
 空の低いところはまだ夕焼けの色が残っているけど、もう夜の空だった。
 穂刈くんは男の子だから危ない事もあまりないだろうけど、それでもボクの家に寄ったせいで帰りが遅くなったのはやっぱり申し訳ない気がした。
「また明日ね」
 たぶん今日の体調だったら明日はちゃんと学校に行けると思うんだけど、穂刈くんは心配そうな顔をした。
「無理するなよ」
「うん。……ありがとう」
 胸のあたりが泣きそうなくらいあたたかくなる。
 穂刈くんってこんなにやさしい人だったんだって再確認した。
「それじゃ、お大事に」
「うん」
 自転車に乗った後ろ姿が小さくなっていくのをボクはしばらくの間眺めていた。


...





※この話は2007年以前に書いたものを2016. 11. 8に加筆修正しています。

一年目春(になるんですよね)、ホワイトデー。
純と自転車って似合う気がしたからそういう最後にしたんですが、実際は徒歩通学なんでしょうか。
ゲーム中だと立ち絵しか見れないから徒歩通学って解釈でいいのか表現上の都合ってことでいいのか悩みます。
そして、次からは二年生編です。純も茜ちゃんも恋に芽生える編。


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