「へえ、子供なんて久しぶりに見たな」
「こ、こんにちは」
 珍しい生き物を観察するような天宮さんの視線に、少し緊張した様子で少女が挨拶する。
 懇願に負けてこの山下公園に連れて来てしまったが、やはり留守番させた方がよかっただろうか。
 まさか未来からやってきた娘だなんて紹介できるわけがないから小日向の親戚という事にして紹介したのだが、余計な事を言いやしないかハラハラする。
「貴様の目は節穴か。子供なんてどこにでも歩いているだろう」
 冥加部長のおっしゃる通り、周りを見渡せばベビーカーに入れられた赤ん坊や、人工の川ではしゃぐ幼児など、見渡せばいくらでも子供は目につく。
「言われてみればそうだね。でも、興味のない物なんてそう意識していなければ目に入らないだろう?」
 そして、じっくり娘を眺めた挙句に天宮さんは言った。
「なんだか氷渡に似てるような気がするね」
「あ、天宮さん!?」
 俺は娘の素性がばれてしまうのではないかとひやひやしたが、冥加部長も七海も特に天宮さんの発言を気にした様子はない。
「そうですか? オレはやっぱり小日向さんにそっくりだと思いますけど……」
「くだらんことをしゃべってないで、さっさと練習を始めろ」
 重々しい冥加部長の声に、俺は慌ててチェロを構えた。まずは課題曲のアンサンブルから練習することになっていた。
「それじゃあ、オレたちはこっちで聞いてようか」
 七海が娘の手を引いて比較的涼しそうな木の下に誘導する。勝手に触ってんじゃねえよ。
 睨みつけた拍子に盛大に音をはずしてしまう。
「す、すみません!」
 くそ。格好悪いところを見せてしまった。横目で少女の表情をうかがうが、特にがっかりした様子は感じられない。ただこちらをじっと見ているだけだ。
「それじゃあ、もう一度最初からやろうか」
 天宮さんの声に促され、チェロに意識を集中させる。昨日一日、アンサンブル練習ができなかったので冥加部長の前でひどい演奏をしてしまうのではないかと不安だったが、集中してしまえば意外とスムーズに音を重ねることができた。
 小日向のヴァイオリンも、俺の指摘した個所がだいぶ改善されてきている。目覚ましい成長ぶりだと思ったし、小日向自身も今の演奏は自信があったようで、得意げな表情で俺の方を見て来る。
「……うん、課題曲はこのくらいでいいかな。そろそろ自由曲の練習もしないと冥加がかわいそうだ」
 自由曲のチェロは七海が演奏する事になっていた。編成は冥加部長ではなく小日向が決めた事とはいえ、面白くない気持ちで七海がさっきまで立っていた場所に移動する。
 俺の気持ちとは裏腹に、娘は満面の笑みで俺の顔を見上げてきた。俺と一緒に演奏を聞けるのが嬉しいのだろうか。……と言ってはうぬぼれすぎだろうか。
「パパー」
「外ではパパって呼ぶなって言っただろ」
 娘は俺に注意されても気にした様子もない。
「ななみくんもチェロ弾くんだね」
 年上をくん付けするのはどうなのかと一瞬思ったが、七海相手なので注意はせずに放っておくことにした。
「……そうだな」
 それよりも、俺はこいつの耳には七海の演奏がどう響くのかという事の方が重要だった。今となってはメンタルもボロボロだし碌な演奏はできてねえが、もともと特待生という立場で入学してきた、元々のポテンシャルは高いはずの七海。
 客観的に聞き比べて俺と七海の演奏はどうなんだ?
 俺はまだ負けてねえよな?
 まさかそんな事を口に出せるわけもなく、娘がいるのとは反対側の手を握りこんで言葉も一緒に飲みこんだ。
 そして、演奏が始まる。
「…………」
 改めて聞くと、七海の演奏も変わってきたように感じる。怯えて萎縮していた様子だったのが、だいぶのびのびした音を奏でている。
 単純に冥加部長の厳しい叱責にもそろそろ慣れてきたのか、それとも小日向と出会ってあいつのアンサンブルに選ばれたというのが自信になったのか。
 もちろん、技術的に指摘するべき部分はいくらでもある。俺から言うつもりは全くないが。
 ただ、そういった箇所を俺からわざわざ指摘しなくても、あいつも練習を続けていずれ克服していくだろう。
 そうなったとき、七海の演奏はどれだけの人間の心を打つのだろうか?
「……ななみくんってチェロうまいんだね」
 少女の呟きが耳に届き、心臓が握りつぶされるような気がした。
 思わず怒鳴り散らしてしまいそうになったが、少女の顔を見て俺は思いとどまった。七海の演奏に感動して呟いたにしてはこいつの表情は淡々としている。
「やっぱりチェロが好きじゃないとうまくなれないのかなあ」
「お前はチェロ、好きじゃないのかよ」
 問いかけると、娘はしばらく考えた後でつぶやいた。
「……好きじゃない」
「だったら辞めればいいだろ」
「じゃあなんでパパはやめなかったの?」
「は?」
 完全に不意打ちだった。
 呆然とする俺の返事を待たずに少女が続ける。
「パパは、チェロのことで悩んで辞めようと思ってたけど、ママのおかげでまた立ち直れたって言ってた。なんでチェロをやめなかったの? 今のパパはチェロ好きになった?」
 俺はどう答えたらいいのかわからずに、少女の顔をただ見返した。
 視界の端では小日向がヴァイオリンを弾き続けている。


 小日向は今日も俺を夕食に招待したいようなそぶりを見せていたが、俺は気付かなかったふりをしてまっすぐ帰宅した。
 家族と団欒、といった気分でもなかったのでそのまま部屋に入り、電気をつけないままベッドに横たわる。胸のあたりで重苦しいものがつかえているようで、さっさと眠ってしまいたいのにそれもできない。
 俺は結局、少女に明確な答えを返せなかった。
 そもそも、俺は悩んでなんかいないと言って話を終わらせればよかっただけなのにそれもできなかった。
 自分自身才能がない事には気づいていたし、冥加部長が卒業されるまで、せめてこのコンクールまでは正チェリストとして同じ舞台に立っていたい。そのためならば睡眠時間をどれだけ削ってでも練習に励むことができる。
 全く悩んでいないと言えば嘘になるが、俺はそう割り切っているつもりだった。
 それなのに、娘からの不意の質問のせいで、改めて自分の状況を振り返ってみる。後ろからは才能のある後輩がやってきて、蹴落とそうとしても振り切れない。
 もし、完全に冥加部長と舞台に立てない日が来たら俺はどうなってしまうのだろう。
 俺の行く先には巨大な穴があるだけではないだろうか。


 浅い眠りの中で、夢なのか妄想なのか自分でもよくわからないようなものを何回か見た後にやっと朝が来た。


 ぐっすり眠れたとはとても言い難く、体は重かったが寝ているわけにはいかない。
 起きてすぐメールをし、小日向の家に向かう。
 小日向は怪訝そうな様子ではあったものの、迷惑がる事なく出迎えてくれた。
「どうしたの? 急に。……あ、分数チェロ!」
 俺がガキの頃に使っていたものだ。ずっと物置にほったらかしていたものだが、調律をしてみたらなんとか普通に弾けそうだった。
「あいつもやっぱり俺たちの練習聞いてるだけだとヒマだろ。悪いけど、今日の午前中はお前の家借りて練習してもいいか?」
 図々しい頼みだとは思ったが、小日向の方は二つ返事で頷いた。
「絶対やだ!」
 予想していたが本人は拒否している。
「でも、ここに来てから全然練習できてないでしょ? 毎日こつこつ練習しないとうまくならないんだよ?」
 娘の口が否定したそうに少し動いたが、結局声にはならないままうつむいた。
「ごめんね、そろそろ行かないと間に合わないからもう行くね」
「急に邪魔して悪かったな」
「ううん」
 小日向は気にするなとでもいうように笑顔で首を振ると、あわただしく部屋を出て行った。
 玄関のドアが閉まる音がするや否や、娘が俺の事を睨みつけてくる。
「わたし、チェロやりたくないもん!」
「知ってる」
 だったらどうして、というように娘はさらに目つきを険しくさせる。というより、泣くんじゃねえのこれ? と思うか思わないかのうちに、大きな目から涙が零れ落ちた。
「お、まえ、泣くなよ。俺がいじめてるみたいじゃねえかよ」
 娘はしゃくりあげながらも俺にいじめられてる、チェロなんてやりたくないのに、と繰り返し必死に主張している。
「いや、無理やり練習させる事になったのは悪かったけどさ……だから泣くなよ……」
 ガキの頃だって女子に泣かれるのは苦手だったのに、この年齢差では罪悪感も倍増だ。
 涙を拭けるようなものがポケットティッシュくらいしかなかったが、しょうがないのでそれで拭いてやる。
「お前、チェロを好きになる方法が知りたいんだろ」
「でもパパもわからないんでしょ」
 娘は反抗的にこちらを睨んでくるのとは裏腹に、俺は柄にもなく優しい気持ちになって頬に触れた。涙でべたついて熱く、そしてやわらかい。
「チェロをやめたいって言うのは小日向には喋ってないのか?」
 とりあえず、落ち着いて話をするためにソファに座らせ、俺は正面の床に腰を下ろした。娘の背後の窓には、青い空とゆっくり動く観覧車が見える。
「……言ってない。高校生のパパにだけ」
「俺だけ?」
 てっきり親父には話していたのかと思っていたがそうではないらしい。
「どうして」
「もっと練習しろって言われるかもしれないし……」
「でも、うまくはなりたいんだよな?」
 娘が表情を硬くしたので慌てて付け加える。
「別に責めてるんじゃねえよ。ただ、やっぱりうまくなりたいんなら練習は大事だろ。うまいやつらはみんなそうやって乗り越えてきたんだ」
 空虚な言葉がむなしく響く。
 努力ですべての問題が解決できるとは限らないのは俺だってわかっている。理想を言われて物事が解決する状況ばかりではない事も。
 だが、今の俺にはそれ以外の答えは用意ができない。
 俺は頭を整理するためにゆっくりと呼吸した。
 勢いに任せてこの家に来てしまったが、こんな誰にでも言えるような事を言いに来たわけではないし、もっと言えばこいつだってそんな事を聞きに過去に来たのではないはずだ。
 せめて俺自身の正直な気持ちを伝えたかった。
「……確かに、俺だって練習したって壁を越えられない日は来るかもしれないと思ってる。もしかしたら今日かもしれねぇし、……もう来てるのかもしれねぇ」
「パパは、ママに会ってもチェロ好きになってないの?」
 娘はほとんどすがるような目つきだった。
 その目つきに耐えられなくなり、ソファの上の不気味なぬいぐるみに視線を移す。持ち主に似て、とぼけた面をしている。
「まだわからねぇ」
 そもそも、好きだとか嫌いだとか、一言で単純に言い表せるような気持ちでもない。ただ、こいつのようなガキに説明するのならそれくらいの簡単な言葉で表現しない事には理解させられないのだろう。
「そんな顏すんなよ。……それに、まだって言っただろ」
 小日向が来てから、何かが変わり始めている。
 七海のチェロは上達したし、天宮さんの知らない面もどんどん見えてきた。冥加部長だって、1stの座を他のやつに譲る事なんて今までは考えられなかった。
 俺はいつか小日向のおかげで救われる日が来るのだろうか。
 少し寒気がして、俺は二の腕をさすった。空調の効いた部屋でフローリングに座り続けていたせいだろうか。
 俺は立ち上がり、分数チェロを娘の横に置いた。
「とりあえず練習しようぜ。お前が最終的にチェロをやめることになったとしても、やれる事は全部やっておきたいだろ」
 できる範囲でできる事をやるしかない。俺もこいつも。
「でも、今までだってパパと練習してたもん」
「お前なあ、お前の親父は俺よりチェロ歴長いかもしれねえが、俺だって現役で毎日練習してるんだぜ? 俺の方がうまく行くに決まってるだろ」
 娘はあまり納得していない様子ではあったが、うまく行くと断言したのがよかったのか、それとも子供なりに俺と練習しても意味がないと強情に主張するのは悪いと気を遣ったのか、こくりと頷いた。
「よし。今練習してる曲は何の曲だ? この中にあるか?」
 言いながら、鞄の中から子供向けのチェロの教本を数冊出して渡す。これも俺がガキの頃に使っていたものだが、改めて見ると表紙が所々破けていたり、ページが取れそうな箇所があったりしてかなりぼろぼろだ。
 娘は俺の渡した中から一冊選び、慎重な手つきで紙をめくりはじめた。
「……これ」
 指差したのは、有名なクラシック曲を初心者向けにアレンジしたものだ。
「これか……」
 確かにこの曲は、アレンジされているとはいえ、この教本の中では少し難しい方だ。
「とりあえず弾いてみろ」
 促すと娘は素直に弾き始めるが、すぐに泣きそうな顔で手を止める。
「全然弾けない……」
「二日休んだからだろ。すぐに取り戻せるからまずは全部弾け」
 おそるおそる、と言った手つきで演奏を再開させる。曲の前半部分はそこそこ弾けているが、後半にテンポが切り替わる個所があり、そこが特に苦手のようだった。
「もうちょっと手の動きをこうしたらどうだ?」
「パパにも言われたけど、うまくいかなかった……」
「どううまくいかないのか、見せてくれるか? ……、それじゃあここんとこを……」
 無理やりやらせたわりには嫌がる様子もなく、娘は俺の指示に従って練習を続ける。
 口ではああ言ったものの、本当にこいつの親父やらプロの指導者が教えてうまくいかなかったものを俺がなんとかできるのか不安だった。
 それでも、だんだん改善されていくのがわかるのは俺にとっても快感だった。
「……よし。それじゃあもう一度頭から弾いてみろ」
 気合の表れなのか、唇をぎゅっと結び、娘が弓を動かす。
 本来のこの曲のペースよりはゆっくりした演奏しかできていないが、一つ一つの音を細やかに弾いていてとても聞きやすい。
 俺の好きな演奏だった。
「弾けた! パパ、弾けた!」
 無事に弾き終えて、娘が飛び跳ねて歓声を上げる。
「だから言っただろ?」
 内心不安だったことなんて悟らせないように、俺は平静を装った。もちろん、娘が弾けるようになったのは安心しているし俺だって嬉しい。
「ありがとう、パパってすごいんだね!」
 きらきらした目で見上げられて居心地が悪くなる。
「別に……それに、お前が今まで親父や先生と練習してきた積み重ねもあるだろ」
 俺はあくまで最後の一押しをしたに過ぎない。
「これからもチェロ、頑張れそうか?」
「うん!」
 黙って娘の頭を撫でた。気持ちよさそうに目を細めるこいつが、今後どう成長していくかはわからないが、いずれにしても幸せになりますようにと願いながら。
「パパもチェロ、頑張ってね!」
「そうだな」
 おざなりに返事をしながら、俺は娘の頭に置いた自分の手を見つめた。
 青白く、血管が浮いている。……そして、チェロを弾く手だ。


 すっかり機嫌をよくした娘はあの後もずっとチェロを弾き続けている。俺も大会前に手を動かさないのは落ち着かないので、一緒に合わせてやったりもする。
 そろそろ腹が減ったな、と感じ始めたころ、玄関が開く音がした。
「ただいまー」
 リビングに現れた小日向に飛びつくように娘が駆け寄った。
「おかえり!」
「ただいま」
 小日向はまとわりつく娘の頭をなでているが、なぜだか視線は俺の顔を向いている。
「ただい」
「……おかえり」
 俺が返事をすると、ようやく小日向は満足したようだった。犬のしつけかよ。
「おなかすいてる? 今日はお弁当のつもりだったからそのつもりでおかず用意してたんだけど、大丈夫?」
 言いながら、小日向は冷蔵庫からゴーヤーチャンプルーの皿を出してこちらに見えるように持ち上げた。
 急に押しかけた俺に食事にケチつける権利はねぇし、娘はなんでもいいから早く食べたいようだった。
「ちょっと待ってね。お味噌汁くらいは作ろうと思って用意してたから」
 小日向が鍋を火にかけたり、おかずをレンジで温めてたりしている間にこちらもリビングを片付ける。
「チェロの練習どうだった?」
「ばっちりだよ!」
 泣きじゃくっていた事も忘れたように娘が胸を張る。余計な事を言ってまた泣かれては構わないので、午前中の事は何も言わない事にする。それに、俺のことだってまだ口止めをしていない。
「お前こそ、アンサンブルどうだったんだ?」
「うん、ばっちり」
 娘と同じ表情で小日向も胸を張る。この数日間でますます表情やしぐさが似てきたようだ。
「ママ、ご飯食べたら一緒にヴァイオリン弾こう!」
「え、今?」
 小日向が許可を求めるように俺の方を見る。子供の単純さには呆れてしまったが、今日の練習の成果を小日向にも聞いてもらいたいのだろう。
「先に山下公園に行って、天宮さんが来るまで弾いてればいいだろ」
 失礼ながら天宮さんはあまり時間に正確な方ではないので、娘と演奏するだけの時間は取れるはずだ。
「でも、その後は?」
 小日向が娘を心配そうに見る。二日連続で炎天下で練習中しながら娘を放っておくのが気になるようだ。
「じゃあ、ここで練習するか?」
「えー、外がいい!」
 娘もずっと家に閉じ込められるのに飽き飽きしていたのだろう。小日向もそれがわかるのか、すぐには答えが出せずに悩んでいる様子だ。
「帰りたくなった時に帰らせたらいいだろ」
 俺が言うと、小日向も決心がついたようにうなずいた。
「それじゃあ早く食べよう!」
 娘はさっそくレンジから皿を出して運ぼうとしている。あぶなっかしい手つきに、俺と小日向はあわてて駆け寄った。


 強い日差しが容赦なく俺たちを照り付ける中俺たちは並んで歩く。
 どういうわけか俺が娘の分の分数チェロまで持つはめになってしまったせいで余計体力を消耗する。
「おい、走ると転ぶだろ!」
 山下公園に着くや否や娘が人工の川に向かって走り出すのを追いかける。
「私、ここがいい!」
 川の上流近くで立ち止まった娘に急かされ、分数チェロを出してやる。
 太陽の光が水面に反射して少しまぶしいが、水の流れが近くにあるおかげで涼しく感じられるいい場所だ。
「それじゃあ、また後でな」
「え、氷渡くんどこいくの?」
 散歩でもして時間をつぶそうと思っていたのだが、不思議そうな顏をした小日向に呼びとめられる。
「氷渡くんも弾くんだよね?」
「は?」
 てっきり俺は数に入っていないものだと思っていたが、娘も小日向も俺を入れたアンサンブルで演奏をするつもりだったようだ。
「どうして俺がそんな……」
 そうは言っても、抵抗しても無駄なのはわかっていた。俺はしかたなく自分のチェロの用意をする。
「何の曲弾くの?」
「これ!」
 娘が小日向に教本のページを見せている。有名な曲だからあいつも楽譜なしでも弾けるだろう。
「それじゃ、始めよっか」
 ゆっくりと弓を動かす。
 小日向の部屋は涼しくて快適だったが、外で弾いている今の方が音が雄大に広がっていく感じがする。
 いや、これまでもよく外で弾いていたが今日はそれ以上に音がよく響く。
 風の音や水の音さえも曲の一部のように俺の耳には聞こえた。
 おそらく同じように感じているのだろう、横目で伺うと小日向も娘も、幸せそうに手を動かしている。
 俺もあんな表情をしているのだろうか。
 ちらりとそんな事を考えたが、それよりも流れて行く旋律に没頭していたかった。
 弦が空気を震わせていく。
 まるで妖精の羽音のようだ、と思った瞬間に変化が起きた。
 夏の太陽を映す水面から、どんどん光が集まってきて、やがてまぶしさのあまり目が開けられなくなる。
 俺も小日向も娘も、異常なほどの光に包まれて本当はもっと動揺していいはずなのに、なぜか指はなめらかに動き、演奏は途切れずに進んでいく。
 これがあいつの言う妖精なのだろうか?
 妖精の姿もお互いの姿も見えなかったが、演奏だけは聞こえてきてお互いがそこにいることがわかる。
 そして、一曲弾き終えた時。
 あれだけまぶしかった光は嘘のように消え去り、普段通りの山下公園には俺と小日向だけが残されていた。


 携帯を開くと、ここ数日間の小日向とのやりとりの履歴が残っている。
 やはりあいつは幻ではなく確かに今の横浜に存在していて、本来の時代に帰ったのだろう。俺の分数チェロごと。
 あの後は、俺も小日向も呆然としていたし、その後すぐに天宮さんが来てしまったので娘についてゆっくり話す時間はなかった。
 そして、普段通りにアンサンブルの練習をしているうちに、あれは自分だけが見ていた白昼夢だったのではないか、という気持ちになっていた。
 そのまま練習は終わってしまい、結局娘についての話はしないまま解散してしまった。
 小日向は今頃家で何をしているだろう。
 俺はごちゃごちゃした電車に乗る気になれず、山下公園からそのまま歩いて家に向かっている途中だった。結構な時間歩き続けたので、夏とはいえもう空はすっかり夜の色だ。
 あいつの家にはきっと娘の服だとか、そういった痕跡が俺の携帯よりも色濃く残っているはずだ。
 白昼夢が白昼夢ではなかったと確信を得て、小日向はどういう顔をしているだろうか。
 携帯が震えてメールの着信を俺に告げる。
 小日向から『緊急事態だからすぐに家に来てほしい』との知らせだった。


「あ、氷渡くん」
 マンションに駆け付けた俺を小日向が招き入れた。緊急事態と言っていた割に小日向のふるまいは暢気なものだ。麦茶でいいよね、なんて言いながら冷蔵庫を開けている。
導かれるままにソファに座らされた俺は相当不審そうな顔をしていたのだろう。
「……えぇと」
 冷えたグラスを俺に手渡しながら、気まずそうに小日向が視線を泳がせる。少なくとも、またあいつが戻ってきただとか、新手の子供が現れたとか、もちろん小日向自身が怪我をしたわけでもないようだ。
誰かのせいで急いだせいもあり、喉が渇いていたのは確かなので、一気に麦茶を飲んで息を吐く。台所の方から煮物のようなおいしそうな香りが漂ってくるのに気が付いた。
「…………」
「夕飯の用意してたのか?」
 そわそわするばかりでなかなか用件を言おうとしないのに焦れて話題を振ってみただけなのだが、小日向は顏を輝かせて勢いよく頷いた。腹をすかしていると思われたのだろうか。
「そう! おでん。氷渡くんも食べる?」
「……で、緊急事態ってなんなんだよ」
「それは、その……」
小日向はしばらくごにょごにょと口ごもった後、ようやく絞り出すようにして言った。
「ほら、あの子が急に帰っちゃったでしょ。おでんたくさん作っちゃってたし……だからちょっと一人で食べるのは無理だし……」
 なんで夏場におでんなんだよとか、冷蔵庫に入れて保存くらいできるだろとか、いろいろ言いたい事はあったが黙って続きを聞く。
「なんていうか、……一人で食べるのが急に寂しくなっちゃって……」
 要するに、これがこいつの言う緊急事態だったわけだ。小日向は言い終えた後も、不安そうに俺の顔色を窺っている。
 俺が怒りだすと思っているのだろうか。あいつが来る前ならあるいはそうだったかもしれないが。
「それなら最初からそう言えばいいだろ、ったく」
 いまさら小日向を突き放すには白々しいほど、俺たちの距離は近づきすぎていた。せめてもの抵抗に、俺はぶっきらぼうに言いながら立ち上がった。
「じゃあ俺はテーブル拭くぞ。ふきんどこにある?」
 小日向は嬉しそうに台所へ走り、白いふきんをしぼってこちらに手渡した。
「氷渡くん、卵たくさん食べるよね? 苦手な具ある?」
 俺の返事を聞くよりも早く小日向はおでんを盛っている。
「……はんぺんも頼む」
 そうして拭き終えたテーブルに小日向が料理を並べる。
 少しだけ広くなったテーブルの上を見て、俺もようやくあいつがいなくなったのを実感した。
「おいしい?」
「ああ」
 真夏におでんなんて、と思ったが、味はもちろんおいしかったし、クーラーの効いた部屋で食べる分には違和感がなかった。
 しばらくそのままお互い無言で食べる。
 話題がないわけではないはずなのに、なぜか何を話したらいいかわからない。
 俺が内心焦っていると、向かい側の椅子に座った小日向が寂しそうに呟いた。
「またあの子に会えるよね」
 答えに迷ったまま俺はおでんの汁を飲みこんだ。辛子が多く溶けていたようで、鼻の奥を刺激されて顔をしかめる。
 俺は小日向と付き合うのだろうか。
 別にこいつの事が嫌いなわけではない。
 すごく好みの外見をしているというわけではないが、まあまあ見られる外見をしているし、性格だって不快になる要素はない。
 アンサンブルメンバーとして、同級生として付き合う分には何も不満はない。
 しかし、あいつは……俺の娘は、俺が小日向のおかげで救われたと言っていた。
 暗い穴に落ちながらもがいている自分。
 そんな自分なんて、誰にも見せたくない。挫折だとか絶望だとか、そういうものとは無縁の、正チェリストとしてふさわしい自分でいたかった。
 小日向に救われて、付き合って。その過程の中で俺はどれだけの醜態をさらしてしまうのだろう。
かっこ悪い自分を知られてしまうくらいなら救われないままでいい。
「……正チェリストの俺とお前で結婚だなんて、釣り合うはずがねえだろ。第一、お前だって俺と付き合ったところでなんのメリットもないはずだ」
 突き放すように言ったはずなのに、小日向は少しだけ微笑んだ。
「氷渡くんはやさしいよ」
 邪気なくそんな事を言われて俺はどう返事をしただろう。
 温かい料理を食べているはずなのに、心の中は冷たい予感で満たされていった。






セーラームーンについて考えてて、付き合ってない男女の前に未来から娘が来るシチュエーションってすごいな……と思って書きました。

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