運命を告げるもの


 携帯が鳴っている。
 横浜天音学園の練習室で、一人気分よくチェロの練習をしていた俺は音楽の世界から現実に引き戻されて舌打ちした。
画面を見ると発信者として小日向の名前が表示されている。いつもなら無視して練習に戻る所だが、またかかってきてはと思うと集中できないし、アンサンブルに関する要件かもしれない。俺は苛立ちながら通話ボタンを押した。
「なんだよ」
 電話に出ると、外からかけているらしき雑音と焦った小日向の声が耳に飛び込んできた。
『あのね、ちょっと大変なことになっちゃって……電話では説明できないから、今すぐ山下公園に来て!』
 一息にまくしたてられ、何を言われたのか理解するのに少し時間がかかってしまう。
『もしもし?』
 大変なことが起きた、とこいつは言った。俺を呼び出すという事はアンサンブル関係の用事だろうか。そしてこの焦った様子。まさか。
「冥加部長のお体になにかあったのか!?」
『えっと……そういうわけじゃないんだけど』
 呆れたような小日向の声色に、俺は手近なものを蹴飛ばしたくなったがなんとか我慢した。
 こいつは横浜天音に転入してきたくせに、冥加部長を軽んじている。信じがたいほど不敬なやつだ。この学校の生徒でそれが許されるのは、昔からの付き合いがあって本人も高い演奏能力を持つ天宮さんくらいだというのに。
 自然と俺の声もとげとげしいものになる。
「なんだよ。冥加部長の身に何かあったんならともかく、そうでないなら電話で済ませればいいだろ。どうしても会わないといけない用事があるならお前が来いよ」
 地方大会を控え、しかも2曲中1曲は冥加部長抜きのアンサンブルで挑まなくてはならないのに、どうしてわざわざ小日向のために涼しい練習室から炎天下の山下公園に出向く必要があるのか。正チェリストのこの俺が。
『それはそうなんだけど……』
 小日向は口ごもりながらも、とにかく緊急事態なのだから早く来てくれと繰り返すばかりだ。
「チッ……しょうがねえ」
 思い通りになるのはしゃくだったが、こいつをここまで焦らせる緊急事態というものにも興味があった。俺は荷物をまとめて山下公園に向かった。


 小日向はベンチのところで待っているという話だった。ちょうど木陰に位置しているベンチに小日向と幼稚園生くらいの少女が並んで座っているのが見える。
「氷渡くん!」
 俺の顔を見て小日向がほっとしたような顔になる。見たところ、こいつ自身が怪我をしたとかヴァイオリンが弾けない事態になったとかでもないようだった。
「なんだよ緊急事態って。まさか、迷子になつかれて困ってるとかじゃねえだろうな?」
 言い終わるか言い終わらないかのうちに、少女が俺の脚に飛びついてきた。馴れ馴れしいガキだな、と思うより早く少女の発した言葉に俺は硬直する。
「パパ!」
「…………は?」
 たぶん俺は相当間抜けな顔をしていたのだろう。小日向がおずおずと説明する。
「あのね、この子、未来からやってきた私と氷渡くんの子供だって言うの……」
 小日向と、俺の子供。未来からやってきた。
 俺はめまいがして倒れそうになるのを必死にこらえた。
「……お前はそういう漫画みたいな話を信じてわざわざ練習中の俺を呼び出したのかよ」
 こいつは俺の貴重な時間を何だと思っているんだ。睨みつけると小日向はさすがに申し訳なさそうな顔をしながらも必死に言いつのる。
「で、でも、ちゃんと氷渡くんの名前フルネームで言えるし、なんとなく氷渡くんに似てるし……」
 たしかに、俺たちの間に流れる不穏な空気を察知しているのだろう、不安げに表情を硬くしている少女の全体的な雰囲気は自分に似ている気がした。
「いやでも、目元なんかはお前にそっくりじゃねえか」
 表情は不安そうにしているものの、俺と小日向を交互に見比べる少女の大きな瞳は好奇心できらきらと輝いている。ヴァイオリンを前にした時の小日向そっくりだ。
「お互いに似てるってことはやっぱり私たちの子供なのかな……」
 嬉しそうに顏を赤くするな、こっちまで恥ずかしくなるだろうが! とは言えず、俺は頭をかきむしった。小日向と喋っていると疲れるので、少女にも話を聞くことにした。俺はしゃがみ、できるだけ威圧しないように気をつけながら話しかける。
「名前はなんていうんだ?」
 返ってきた答えを聞いて絶句した。少女が名乗ったのはいつか子供ができたらつけようと思って俺が温めてきた名前そのものだったからだ。
「小日向、お前……」
 まさか俺の部屋をあさって引き出しに入れておいたノートを見たのではないだろうか。そして二人でグルになってドッキリをしかけているのではないだろうか。動揺のあまり非現実的な妄想をしてしまう。
「……いや、そんなわけねえか。そもそも、未来から来たって言うならどうやって来たんだよ? 何年後か知らねえが、タイムマシンでも発明されたっていうのか?」
「あのね、妖精さんが連れてきてくれたの!」
「……は?」
 子供の説明能力と、話自体の突飛さのせいでいまいち把握できない所はあったものの、要約すると、こいつは俺たちの娘らしくチェロを習っているそうで、公園で練習していたそうだ。そうしたら妖精とやらが話しかけてきて、ひとつ願いをかなえてくれると持ちかけてきたらしい。
 そしてこいつは、自分が生まれる前の両親の姿を見てみたいと願った……という事だそうだ。
「妖精? 函館で見たようなあれか? だからって非科学的すぎるだろ」
「クラーケンがイカの姿で天宮さんに襲い掛かってくるってのも非科学的だと思うけど」
「うるせえな!」
 イカ釣りの時の自分のうろたえ振りを思い出すと我ながらいたたまれなくなる。穴を掘って埋まりたいくらいだ。
「……ともかく、こいつは交番に連れてくしかねえだろうな」
「えー」
「なんでー! せっかく高校生のパパとママに会えたのに!」
 おい。娘はともかく、なんで小日向まで残念そうな顔するんだ。
「こいつは両親に会うために来たって言ってるが、俺たちはただのアンサンブルメンバーでそんな関係じゃねえだろ。顏が似てたりするのは他人の空似だ」
 俺は注意深く周囲に視線をやりながら言う。ドッキリだとしたらどこかにカメラや共謀者がいそうなものだが見当たらない。
「ほら、いくぞ。……小日向はついてくるなよ」
 当然のようについて来ようと立ち上がる小日向を制する。
 俺たちの娘だと主張する少女を連れて3人でほのぼの歩くなんてごめんだった。
「お前だって、俺たちと一緒にいてもしょうがないだろ。俺たちは夫婦でもなんでもないんだから」
 その場から動くまいとしゃがみこむ娘に声をかけると、しぶしぶと言った調子で立ち上がった。俺が強硬に否定するものだから、未来の娘だと主張する気持ちも失せたようだった。
「ほら、はぐれないように手つないでろ」
 それでも、俺が手を差し出すと少女は素直に握りしめた。
 子供の手は思ったよりも熱く、柔らかい。そして、俺の手と同じ個所にタコがある。
 少なくとも、チェロを弾くという事だけは信じてもよさそうだった。


「……それじゃ、おねがいします」
 これまでの人生において、そう悪い事をした事があるわけではないのに、警察官と会話をするというのは妙に緊張して疲れる。
 前世の俺はなにか犯罪に手を染めたりしてたんだろうか。
 くだらない事を考えながら俺はぎこちなく警官に頭を下げ、少女の方を見た。
「……じゃあな」
 少女が警察官に伴われて交番の奥に行くのを見送ってから、俺も歩き出した。
 そう暗くはなっていないが、もう夕食時と言っても差し支えないくらいの時間だった。
 チェロなどのかさばる荷物は小日向に預けていたが、あいつもそろそろ帰る時間だろう。俺は急いで山下公園に戻った。
 そして、絶句した。
「ど、どうして……」
 最初に会った時と同様に小日向と娘が並んでベンチに座っていた。俺を見て小日向がほっとした顔をしたところも同じだ。
「氷渡くんを待ってる間、私もヴァイオリンの練習してたからよくわからないんだけど……」
 練習を終え、一息つこうと振り向いたら少女が座っていたのだと小日向は説明した。いつの間に現れたのかまったく気づかなかったそうだ。
「お前、どうやってここに来たんだよ……」
 聞いても少女は首をかしげるばかりだ。とぼけているというよりも本気で何もわかっていない様子だった。
「…………」
「とりあえず、今日はもう遅いからこの子家につれて帰るね」
 どうするか頭を抱えていると、小日向が明るい調子で請け負ってくれてほっとした。また交番に連れて行くのは気が重かったし、家で預かるとしたら一人暮らしの小日向に頼るしかなかったのだが、それを正チェリストの俺から頼むのはしゃくだった。
 小日向が少女の手を取って微笑む。
「それじゃあ、パパとバイバイして帰ろうか」
 パパじゃねえって言ってんだろ。
 俺が口を開く前に少女の不満げな叫びがあがった。
「えー、なんで? パパも一緒にお家に帰ろうよ」
「なんでだよ。そもそもさっきから言ってるように俺たちは夫婦じゃねえし、俺には俺の家があるんだよ」
 小日向の家に一緒に「帰る」なんてごめんだ。どうして正チェリストの俺が会ったばかりのガキのためにそこまでしてやらなきゃなんねえんだ。
「……あ、そういえば生クリームが余ってたんだった。夕ご飯、カルボナーラでいい?」
「うん!」
 嬉しそうにうなずく少女の頭をなでながら、小日向がからかうような目線をこちらに投げてくる。カルボナーラは俺の好きな食べ物の一つで、それはもちろん小日向も知っているはずだった。
「……ま、まぁ、お前らがどうしてもって言うんなら行ってやらなくもねえけどな」
 そう言うと、娘も小日向も満面の笑みになった。


「……おじゃまします」
「わー! 観覧車だ!」
 初めて入った天音学園の生徒用のマンションは俺の家なんかよりも高級そうな家具が揃っていて、俺はくらくらした。
 少女はまっすぐ窓の方へ走って行ってライトアップされた観覧車を眺めている。
「話には聞いていたが、お前らこんな豪華な部屋に住んでるのかよ……」
「私も初めて来たときはすごくびっくりしちゃった」
 苦笑しながら、小日向は冷蔵庫から麦茶を出して人数分のグラスに注いだ。
「ちょっと着替えてくるね。氷渡くんも上着かける?」
 この部屋にもクーラーはついているようだったが、ずっと上着を着てるのは正直邪魔だったので小日向に渡す。小日向は俺の上着を持ったまま別の部屋へと消えて行った。おそらくそちらが寝室なのだろう。
 小日向がいなくなり、俺は改めて部屋を見回した。引っ越してきたばかりだからなのか、あまり多くのものがあるわけではなかったが、俺たちの座っている高級そうなソファの上によくわからないぬいぐるみが置かれているのが女子の部屋らしい気がした。
 それにしても、この同じ建物の中に冥加部長や天宮さんが住んでいるのか。そう思うと今から訪問するわけでもないのに緊張してしまい、俺はソファの上で姿勢を正した。娘はのんきに麦茶を飲んでいる。
「おまたせー」
 ノースリーブのカットソーにミニスカートという軽装で小日向が現れた。
「……ああ」
 俺はなんとなく気恥ずかしくなって目をそらした。そういえば私服の小日向自体、見るのは初めてだった。そのうえ普段は長袖の制服をきっちり着込んでいる姿しか見ていなかったせいか、柔らかそうな二の腕だとか、鎖骨周りの肌の白さについ目を奪われてどぎまぎする。
「それじゃあ用意するね」
 そんな俺の様子に気付くはずもなく、小日向はさっさと台所に入りエプロンを身に着けた。
「ママ、テーブル拭くやつちょうだい!」
 家でもそうやって手伝いをしているのか、娘は台拭きを受け取ってダイニングテーブルを拭きはじめる。
 俺は人の家で何をしたらいいのかわからず、情けなくおろおろしてしまう。
「小日向、他に何かすることあるか?」
「こっちは大丈夫だから、氷渡くんは遊び相手してあげてて」
 テーブルを拭き終った少女が期待に満ちた目でこちらを見て来る。
 小日向は遠慮しているのかとも思ったが、実際、手際よくカルボナーラの準備をする姿を見る限りでは俺に手伝える事なんてなさそうだった。しかし。
「遊ぶっつってもなぁ……」
 男相手ならともかく、突然女子が現れても何をしたらいいのかがわからない。ガキの頃は姉ちゃんのままごとやら人形遊びやらに付き合わされたりしたが、小日向の前で声色を使って子供をあやすなんて真似、できるわけがない。
「小日向。テレビつけていいか?」
 ローカルニュースやドラマの再放送は子供には退屈だろうから、幼児向け番組を放送しているチャンネルに切り替える。
「えー、こんなの子供っぽーい」
 回した番組はこいつよりももっと下の年齢を対象にしたもののようで、少女は赤ん坊扱いするなとでもいうようにふくれっ面をする。
「文句言わないで大人しく見てろ。……お、あのピアニスト、こんな番組にも出てんのか……」
 久々に見る幼児番組はなかなかクオリティが高く、娘も最初は不満そうにしていたものの徐々にのめりこんでいる。俺もつい子供と一緒になって夢中になってしまった。
「おまたせー」
 しばらくすると小日向が両手にカルボナーラの乗った皿を持って現れたので、あわてて立ち上がった。
「運ぶのくらい俺がやるよ、落としたらどうするんだよ」
「そんなに重くないから大丈夫だよ」
「お前、この前コンビニの前で買ったばかりの飴をぶちまけてただろ……」
 飴が個包装だったのは不幸中の幸いだったが。
 娘にも小皿に盛っているサラダやボトルに入った麦茶を運んでもらい、夕食の準備が整った。
「いただきます」
 皿からは濃厚なチーズの香りが漂ってくる。小日向の料理がうまいのは毎日の弁当で知っているつもりだったが、出来立てとなるとまた格別だった。
 夢中になってカルボナーラを口に運ぶ。
「おいしい?」
「ああ」
「おいしい!」
 小日向はにこにこしながら俺と少女を見比べている。
「やっぱりそうしてるとすごく似てるね。親子みたい」
「当たり前でしょ?」
 小生意気な口調で少女が言い返すのもほほえましいようで、小日向はまだ笑っている。
「……見てないでお前も食べろよ。冷めるぞ」
 恥ずかしくなって俺はことさらにぶっきらぼうに呟いた。
 小日向は自称・娘が現れた事を能天気に喜んでいるようだったが、俺は複雑な気持ちだった。
 子供がいるという事はそういった行為をしたという事だ。
 良く言えば清楚、悪く言えば色気がない小日向をこれまでそういう目で見た事はなかったが、普段の制服とは違う格好でいるせいもあってか、余計に生々しく想像してしまう。本人を目の前にしてなんだが、つい小日向と行為をしている光景が頭によぎってしまうのだ。
 あまりこれ以上深くは考えたくなかったのだが、どうしても確認をしておきたい事がある。
「お前、兄弟はいるのかよ」
 俺が問いかけると、少女は表情を曇らせて首を振った。
「ううん」
 ほっとする俺とは裏腹に、小日向はがっかりした顔になる。
「そっかー」
「……なんだよその反応は」
「私、兄弟はいなかったけど、小さい頃はよく響也たちに遊んでもらったから。自分が結婚した時も二人以上は欲しいなあって思ってた」
 幼い頃を思い出しているのか、俺の質問に答えながらも、小日向の目はどこか遠くを見ていた。
「そうかよ」
 なんとなく面白くない気分になり、自分のコップに乱暴に麦茶を注いだ。退学になってからもこいつの頭の中は常に如月でいっぱいなのか。やっぱり俺らが夫婦なんて嘘なんじゃねぇのか。
 そんな俺のもやもやした気持ちも、続く少女の発言で吹き飛んだ。
「でもね、わたしが弟か妹が欲しいって言ったらね、ママもたくさん兄弟ができるように頑張ってくれるって!」
 何をどう頑張るというのか。俺は思わずフォークを落としてしまう。
「小日向! おまえ子供相手だからってなんてことを……!」
 フォークを拾うのも忘れて俺は詰め寄った。こいつが男だったら胸ぐらをつかんでいたところだ。
「ち、違うもん! 言ったのは私じゃないから……!」
 さすがの小日向も真っ赤になって手を振る。俺の狼狽の意味がわかる事に対して、ほっとするような更にいたたまれなくなるような複雑な気分だった。
「で、でもね、うちにはニアもいるから寂しくないよ!」
 自分のせいでケンカをしてると思ったのだろう、少女が慌てて割って入る。
「ニア?」
 どこかで聞いたような名だ。星奏の報道部に所属してる女にいろいろ俺のプロフィールを聞かれた事があったが、もしかしたらあいつがそんな感じの名前だったかもしれない。
「うん、うちの猫。ママの友達から名前貰ったんだって」
 俺は小日向と顔を見合わせた。知人から名前をもらうというのは本人が亡くなっている場合も多い。小日向は顏をこわばらせながらも、おそるおそる尋ねる。
「ちなみにその友達って……元気?」
「うん! 昨日もうちで一緒にケーキ食べたよ!」
 それを聞いて俺たちは胸をなでおろす。俺にとってはニアとやらは友達でも何でもないが、話したことがあるやつが若いうちに亡くなったと聞かされるのはダメージがでかい。
「未来の事って知らない方がいい事も多そうだよね……」
 それは俺も同感だった。
 本当にこいつが未来から来たのであればいろいろ聞いてみたい事はあったのだが、なんとなく怖くなってしまい、その後はテレビを見ながら当たり障りない会話をした。


「次はお姫様の絵描いて!」
「うん、わかったー」
 ほのぼのした会話を聞き流しながら俺は皿洗いをする。小日向も最初は遠慮していたのだが、料理を作らせておいて食後の片づけもそのまま人任せ、というのでは借りを作るようで嫌だったからだ。
「氷渡くんも一緒にお絵かきしない? 美術の時の絵、すごかったし」
 褒められるのは悪い気はしなかったが、どうせ描くならドラゴンや魔王の方が俺の好みだった。お姫様だとかお花だとかの絵は専門外だ。
 そんなに使った枚数が多いわけでもないので食器を洗うこと自体はすぐに終わりそうだったが、この家の水切り籠のサイズでは3人分の食器と鍋を置くのは無理そうだ。俺はいったん食器を洗う手を止めて小日向に声をかけた。
「小日向。食器、どこにしまえばいい?」
 場所を教えてもらえれば自分でやるつもりだったのだが、小日向はわざわざお絵描きを中断してこちらにやってきた。
 いちいち指示をするよりも自分でやった方が早いという事なのだろうが、そう広くないキッチンで無防備に横に立たれると、俺は平静でいられなくなる。
 腕と腕が触れそうになり、俺は慌ててよけた。
「氷渡くん、今日はありがとう」
「別に、食器くらい洗って当然だろ」
 動揺を悟られないように、食器洗いを再開しながらつとめて冷静に返事をすると、小日向はおかしそうに笑った。
「ううん、今日ご飯食べに来てくれてありがとうって。普段、夕ご飯は一人で食べてるから。……響也も呼べなくなっちゃったし」
 何でもないような口調を装ってはいたが、その横顔は寂しそうだった。
 当然だろう。こいつはわざわざ地方からこの学校に転入してきて、一緒に頑張るはずだった幼馴染も今はいないのだ。噂では如月は星奏に転入したという話だったし、それが本当ならまだ横浜にはいるんだろうが、不安な事には変わりないだろう。
「もしかして、如月以外でこの家に入ったのは俺たちが初めてなのか?」
 尋ねると、すねたように唇をとがらせた。
「七海くんも来たことあるもん。……引っ越し初日に案内してもらっただけだけど」
 横浜天音学園の校風や転校してきた時期を考えれば当然の事だったが、こいつが俺たちアンサンブルメンバー以外の生徒と交流しているところなんて見た事がない事に気が付いた。
「こんな学校だなんて知らなかったから、いろいろお客さん用の食器買っちゃったんだけどね」
 拭いた皿をしまいながら小日向は苦笑した。確かに、ちらりと見えた棚の中は大小さまざまな食器が揃っていて、一人暮らしにしては十分すぎるほどだった。
「ね、氷渡くん。また遊びに来てね」
 こちらを見上げる小日向が普段より弱々しく見えて、反射的に頷きそうになるが慌てて首を振った。
「な、なんで俺がわざわざお前なんかの家に二度も三度も遊びに来なきゃなんねぇんだよ。横浜天音学園の正チェリストの俺にそんな暇あるかよ」
 そもそも、俺一人でこの家に来たって気の利いた話題を提供できるわけではないし、小日向にとっても退屈だろう。
「……まぁ、あいつの世話が必要だっていうならまた来てもいいけどな」
 俺が遊びに来たって楽しい事なんて何もないはずなのに、あまりにも小日向がしょぼくれた顔をするものだから仕方がなく俺は付け加えた。
「ありがとう!」
 さきほどまでの様子が嘘のように小日向の表情が明るくなる。
「別に、俺はお前と遊びたいってわけじゃないからな……あくまで、お前一人でガキの世話は大変だと思って手伝ってやるだけだからな……!」
 言い訳がましく言葉を並べる俺を小日向はにこにこしながら見つめていた。


 翌朝、目が覚めると既に9時近くになっていて俺は愕然とした。
 俺は練習時間をできるだけ確保するため、始発に乗って早朝の練習室にこもるようにしていた。
 それなのにこんな時間になってしまっては、急いで学校に向かったとしても既に生徒たちで賑わっているだろう。
 もちろん、他の奴らがいようがいまいが練習する事には変わりはない。だが、正チェリストの俺が必死になっているところなんてできるだけ見られたくなかったし、誰もいない学校の方がよく集中できた。それなのに。
 俺はため息をついて携帯をチェックした。昨日の帰りに、朝起きてもまだあの少女がいるようだったらメールをするように小日向に頼んでいたのだ。
 寝て起きたらいなくなっている。そんなことが起きていないか期待をして。
 しかし、そんな期待は『おはよう♡』というタイトルのメールに打ち砕かれた。
「…………っ」
 俺はしばらく布団に突っ伏した。
 まだ少女がこちらにいるというのも気が重かったし、小日向のメールのタイトル。
 ハートマークって、なんなんだ。
 もちろん俺は女子がなんの意識もせずただの彩りとしてその記号を使っているのは知っている。知っているのだが、いざ目の前にすると動揺する。
 ましてやそれが小日向――未来で結婚しているかもしれない相手からというならなおさらだ。
 俺はその体勢のまま、しばらくじっとしていた。
 あんな事があったせいで、俺が小日向と付き合ったりとか、夫婦として生活をしたらどういう風なのか……要するに、夜の生活に関する妄想は寝る直前までずっと頭の中に付きまとっていた。
 そして、寝ている間に見た夢も大差ない内容だったようで、起きてしまった今では内容はあまり覚えていないが、なんとなく頭の中に甘い余韻が残っている気がする。
「…………」
 考えても考えても頭が混乱するばかりだったので、俺は観念して立ち上がった。
 小日向からのメールには学校に行く前に家に寄ってほしいと書かれている。断る気力も既になかった。


「氷渡くんごめんね、できるだけ早く戻ってくるから」
「……ああ」
「お姫様みたいなお洋服買ってきてね!」
 少女の要求に困ったような笑みを浮かべながら、小日向がドアの向こうに消えた。
 どんな服を買ってきてもらえるのかが楽しみなのだろう、小日向のTシャツを身にまとった少女は弾んだ足取りでリビングへ戻っていく。俺はため息をついた。
「確かに、着替えなんてこいつが持ってるわけねえよな……」
 丈が長いのが嬉しいのか、裾をひらひらさせながら歩き回る娘を尻目に俺はケースからチェロを出した。すかさず少女が俺の近くに寄ってくる。
「パパ、チェロの練習するの?」
「当たり前だろ。もうすぐ大事なコンクールがあるからな」
 人んちで練習するというのは落ち着かないが、俺の家と違ってこのマンションは防音だ。小日向からも練習してかまわないと許可をもらっている。
 それにたとえ音が多少漏れたとしたってお互い天音の学生だ、たいしたトラブルにはならないだろう。
「……なんだよ。暇なら一人で遊んでろ」
 少女が妙にじっと俺の手元を見てくるのでやりづらい。もちろん、俺だって日々天音学園の生徒として切磋琢磨しているし、冥加部長の演奏旅行に同行させていただいたこともある。見られたくらいで演奏をミスするということはないが。
「…………」
 少女は先ほどまでのはしゃいだ様子が嘘のような静かな表情で俺の手元を見ている。そういえば、こいつもチェロをやっているという話だった。他のチェリストの練習風景が気になるのだろうか。
「なぁ」
 できるだけなんでもない調子を装って声をかけた。
「未来では……お前の親父はチェロを弾いてるのか?」
 言い終わった瞬間、胃のあたりがずしりと重くなった。
 未来の事なんて知らない方がいい。
 昨日はそう思っていたはずなのに、チェロと少女を同時に目の前にしてみると、知りたい気持ちが湧き上がって抑えられなかった。だが、質問をしたらしたでその答えを聞くのが怖くて仕方がない。
 俺の気持ちとは裏腹に、父親の事を思い浮かべてなのか娘は表情をほころばせた。
「うん! パパがお休みの日はいつもチェロ一緒に弾いてるよ」
「そうか」
 お休みの日は、か。
 俺は口の中でつぶやいた。未来の俺はチェロは趣味にとどめて平日は普通に仕事をしているのだろう。
 やっぱりなという気持ちもあったし、そもそもまだこいつが未来の娘だと認めたわけではないと悪あがきをしている自分も心の中にいる。
 自分自身でも高校を出た後も音楽を続けて行くほどの才能はないとわかっているのに、それでも心の中でもしかしたら、と思っている。
「そもそも、お前の母さんは親父のどこが良くて結婚したんだよ」
 この少女は俺と小日向が結婚して自分が生まれたと言っているが、理解できないのはそこだった。
 初対面の時からずっと、俺は小日向に対して偉そうに振る舞ってきた。横浜天音の正チェリストとして当然の態度だと思っているし、その事について後悔しているわけではないが、他校からやってきたあいつにとっては到底好感を持てるような態度ではないだろう。
 それでも小日向が能天気なおかげで一緒に練習したり昼食を取ったりという事はあったが、まさか結婚するくらいまで好かれるようになるとは思えない。
 だから、少女の発した答えを聞いてほっとした。
「優しいところだって!」
 俺は小日向に特別優しくしてやった事なんかない。……いや、演奏についてアドバイスしたりコーヒー牛乳をやったことくらいはあったが、いくらあいつがお人よしでもそれくらいで結婚しようなんて思うわけがない。やはり、こいつの父親は苗字が偶然同じだけの別人なのだろう。
 心の中でそう結論付けたが、なんとなく心の中にもやもやしたものが残っているような感じで、完全にすっきりしたとは言えなかった。
「なんか好きな曲弾いてやるよ」
 課題曲にとりかかる気になれず、少女のリクエストに応えて無心で指を動かした。


「あんまりお姫様っぽくない……」
 口では不満そうなことをいいつつも、少女は新しい服を与えられて満足しているようだ。早速袋の中からワンピースを出して着替え、何度も全身鏡の前に行っては頷いている。その様子を眺めながら俺は小日向にささやいた。
「小日向、いくらだった?」
「え、悪いよ」
「悪いわけねえだろ」
 小日向の持って帰ってきた洋服屋の袋は、安いチェーン店のものではあったが結構な大きさだった。真実がどうあれ、こいつが俺たちの娘だと主張しているのに小日向だけに負担させるわけにいかないだろう。しばらく押し問答をした末にようやく小日向は金を受け取った。
「氷渡くん、お昼ご飯食べるよね?」
 小日向がエプロンをつけながら問いかけてくる。言われてみればもうそんな時間だった。
「あ、ああ」
 二日連続でこの家で食事をすることになんとなくためらいがあったが、断る理由も見つからない。俺は曖昧にうなずいた。
 娘が机を拭き、キッチンからはリズミカルな包丁の音が聞こえてくる。チェロを片付けるために二人に背を向けると、小日向と結婚した未来に自分の方がタイムスリップしたような錯覚に陥ってくる。
 そんな未来はあるわけないのに。
「パパ!」
「うわっ」
 架空の未来について考えていた俺は、急に後ろから飛びつかれて情けない声を上げてしまう。
「ごはんできたよ!」
 まるで自分で作ったかのような得意げな声を出す娘に促され、食卓に着く。今日のメニューは親子丼だった。
「お前、好きな食いもん出しときゃ俺が毎日来るって思ってねえだろうな……」
「そ、そんなことないけど」
 でも、氷渡くんに喜んでほしかったし、と呟かれたのは聞こえないふりをした。言ってて恥ずかしくならないのかこいつ。
「いただきまーす」
 無視されても特に気にした様子もなく、小日向は俺の向かいで嬉しそうに親子丼をほおばっている。
 小日向は今日は半袖のブラウスを着ている。ぱっと見は昨日よりは露出が抑えられているように見えるが、夏らしく袖や首元が透ける素材で作られている。そんなことばかり気にしてしまう自分が情けないが。
「お前、私服着てるって事は今日は学校行かねえのかよ」
 昨日はまったく出来なかった分、今日はアンサンブルの練習をしないといけないはずだ。
「うーん……そうだよね」
 小日向は困った顔で隣の少女を見やった。その間こいつをどうするのかを考えているのだろう。 「留守番くらいできるだろ」
「えー、ママが出かけるなら私もお出かけしたい!」
 少女が箸を振り回す勢いで抗議してくる。置き去りにされる身からすれば不満かもしれないが、俺たちが練習に連れてったって相手してやれるわけでもない。
「俺たちは遊びじゃねえんだ、大事な大会に向けて練習しなきゃなんねえんだよ」
「私も練習してるとこ見たい!」
 この強情な所は誰に似たのだろうか。どう説得したものか悩んでいると、小日向が「まあまあ」と割って入った。
「じゃあとりあえず一緒に来てもらって、飽きたら家でお留守番しようか?」
「飽きないもん……」
 どうせすぐに飽きるだろう、と思われていると感じたのか、少女は頷きながらも頬を膨らませている。
「決まったらさっさと食べて出るぞ」
 あまり時間も残っていない。俺は急いで丼の中身をかきこんだ。








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