青春は白い色をしている


 白い。
 俺が席に座ったままぼうっとしていると、急に後ろから小突かれた。
「純、なにやってるんだよ。帰らないの?」
 振り返ると帰り支度を済ませた匠がにやにやしながら立っている。俺も慌てて立ち上がろうとするが、匠はからかうような表情を浮かべたまま、わざとらしい仕草で俺が先ほどまで眺めていた方向に顔を向けた。
「あの中に気になる女の子でも見つけたのか?」
 その視線の先、教卓の横では女子がなにやら固まって会話をしている。
 俺は変な誤解をされたくなくて早口で答えた。
「べ、別にそんなんじゃない。冬服の中に夏服の女子がいると目立つなって思ってただけだ」
「ああ、茜ちゃんな」
 あの集団の中にいる一文字さんという女の子は、家庭の事情で周りが冬服を着ている時期でも夏服を着て来ている。
 だから、沈んだ緑色の制服の中に彼女がいるとそこだけが明るく輝いて見えるのだ。
 もちろん夏服が目立つのは入学当初から感じていたが、この春に同じクラスになって顔を合わせる機会が増えたので当然目が行く頻度も増える。
 それだけのどうということのない話なのに、匠の方は勝手に「確かにあのバストはつい見たくなっちゃうよなあ」などと頷いている。
 あまりこいつの話に付き合って妙な噂を流されてはかなわない。クラス替えをしてからまだ一週間ちょっとしか経っていないのだ。
 これ以上突っ込まれないうちに退散しよう。
「俺はそろそろ帰るからな。今日は家の手伝いしないといけないんだ」
「女の子を眺める暇はあるのにな」
「……うるさい」
 鞄を持って歩き出すと匠もついてくる。
「まあそう怒るなよ。それより、純に用事があったんだ」
「用事?」
「今度の日曜日、ゲーセンに行く約束してただろ? それがダメになっちゃってさ」
「……どうせデートの約束でも入ったんだろ」
「あったりー」
「普通こういうときは先に入ってた予定を優先するもんじゃないのか」
 匠と遊びに行くのを楽しみにしていたわけではないが、こうもけろっとした顔で約束を反故にされるのもなんだか釈然としない。
 俺が渋い顔をしていると、匠はさらに神経を逆なでするようなことを口にする。
「しょうがないじゃん、彼女がその日がいいって言うんだから。ああ、なんだったら彼女の友達でも誘ってダブルデートにするか?」
「ダ、ダブルデート……!」
 思わず自分が誰か知らない女子と歩いているところを想像してしまう。
「俺は別に興味ない!」
 顔に集まった熱を振り払いたくて怒鳴るような口調になってしまったが、もちろんそんな事でひるむ匠ではない。
「そんなこと言って、俺たちもう高二だろ? デートくらいしなくてどうするんだよ」
 俺たちが高二なのとデートと何の関係があるというんだ。そういう事には人それぞれのペースがあるはずだ。
「だから興味ないって言ってるだろ。それに、もしデートすることがあったとしてもお前と一緒はごめんだ」
「冷たいなあ。俺はお前の将来を心配して言ってるのに」
「余計なお世話だ」
 そんな会話をしているうちに下駄箱についた。てっきり俺は匠もそのまま帰るのかと思っていたが、どういうわけか俺が外靴を出すのを眺めているだけだ。
「どうしたんだ?」
「俺、今日は別の子と帰るからさ。一緒に帰れなくて悪いな」
「…………」
 相手は例のデートをするという相手なのか、それともまた別の女子なのか。
 羨ましいわけでは全くないのだが、こうも違いを見せつけられるとなんとなくもやもやした気持ちになるのは確かだ。
 どちらにしても立ち話を続けるわけにはいかなかったから俺は急いで学校を出た。


 家に帰って急いで動きやすい服に着替え、店頭に立つ。
 今日は姉貴も店を手伝うことになっていたが、当然力仕事は男の俺が多く請け負うことになる。
 レジ打ちなどの作業は姉貴にまかせて俺は鉢を動かしたりブーケを作るときに出た茎やリボンの切れ端をゴミ箱にまとめたりしていた。
 体を動かすことは得意だとはいえ、そんな作業をずっと続けているとさすがに疲れてくるから店の隅でこっそり菓子をつまんだり腰をそらしたりしていると、外を見知った女子が足早に歩いているのが見えた。
 一文字さんだ。
 これから夕食の準備をするのだろうか、左手には大きな米の袋を抱え、右手にはぱんぱんにふくらんだ買い物袋を持っている。
 一度家に帰ってから買い物に来たようで私服姿だ。
 とはいえ、白いポロシャツを着ているせいか、こうやって遠くから見る分にはあまり普段と印象が変わらないように感じる。
 あんなに大荷物だったら持ち運びするのにもおそらく一苦労だと思うのだが、ここからうかがう限り彼女の表情は明るい。
 荷物が重くて大変だとか、そもそも毎日家事をしないといけないのが辛いなどという陰りは一切ないようだ。
 もちろん彼女だって人間だから時には落ち込んだり面倒に感じたりすることもあるのはわかっているのだが。
 まぶしいものでも見た後のように、一文字さんが見えなくなってからも俺の目には彼女の姿がしばらく焼き付いていた。


 5月が近づいてくるにつれて、新しいクラスになってぎこちなかった空気もどんどん慣れたものになってくる。
「レディ……go!」
 俺は審判を匠に頼んで近くの席の奴らと腕相撲をしていた。
 相手も運動部で鍛えてる奴らばかりだから結果は勝ったり負けたりだったが、やはりこういう体を使った勝負事は盛り上がる。
「匠、お前も参加しなくていいのか?」
 何回か勝った後で声をかけると匠は嫌な顔をした。いつもからかわれている分、こういう顔を見ると少し気分がすっとする。
「……わかってて言ってるだろ。俺はお前らと違ってかわいいから別に腕力がなくてもいいんだよ」
 それでも審判として付き合ってくれるのは親切なのか、趣味の情報収集の一環なのか。
 そのまま組み合わせを変えながら試合を繰り返していると、一文字さんが近寄ってきた。
「なにしてるの? 腕相撲?」
 ちょうど俺が座っているところの真横に立たれて、白い制服がいつもより近い。
 せっけんの清潔な香りがほのかに漂ってきて、焦って彼女がいるのとは逆方向に顔を向けると匠が面白そうに俺を観察していた。
「あのね、先生が授業で使う道具運ぶの手伝ってくれだって」
 一文字さんの方は俺の動揺には気付かずに俺の向かいに座っているやつに話しかけている。
 目の前の相手は野球部に所属していて、次の授業もその顧問が担当している教科だったからきっとその関係だろう。
 野球部のやつが立ち上がると一緒に仲のいいやつも抜けて、そうなると腕相撲の組み合わせも大体試してしまっていたからなんとなく解散する雰囲気になる。
「あれ、もう終わっちゃうの? せっかく楽しそうだったのに」
「茜ちゃんもやりたかった? 腕相撲」
 たぶん匠は冗談半分に聞いたのだろうが、驚くべきことに一文字さんはこくりとうなずいた。
「うーん、ちょっとね」
「じゃあさ、純とやればいいよ」
「えっ!?」
 俺が素っ頓狂な声を出すのとは反対に一文字さんは目を輝かせた。
「やりたいやりたい! ねえねえ穂刈くん、ボクと勝負しようよ。一回でいいからさ」
 そう言われて角が立たないように断る話術なんて俺にあるわけがない。
 俺が頷くや否や、一文字さんはさっきまで野球部のやつが座っていた席に腰を下ろした。
「じゃ、じゃあ……」
 おそるおそる右手を出すと、思ったよりも強い力で握られる。
 握力は互角だったが、感触は先ほどまで相手だった奴らとは全く違う。これが女の子の手なのか。
 それにしても、女の子と腕相撲するなんて生まれて初めてだ。手加減した方がいいのだろうか。
 いや、そもそも手加減をする以前にこうやって女の子と向かい合う状況だと緊張してしまって、本気でやりたくても力が入りそうにない。
 いろいろな考えに気を取られているうちに匠が開始の合図をし、俺は一瞬で一文字さんに負かされた。
「なんだよ純、弱いなあ」
「そ、そんなことないよ。穂刈くんは手加減してくれたんだよ。ねっ?」
 思ったよりもあっさり俺に勝ってしまったのがショックだったのか、一文字さんはそう言って俺をフォローしようとする。
 ただ、正直言うと、今の感じだとたとえ俺が本気を出せていたとしても勝てたかどうかはわからなかったが。
「それにしても今のは負けるの早すぎだろ。普段は運動神経がいいの自慢してくるのにさ」
 俺が「自慢なんてしてない」と言い返すのと一文字さんが「そうなの?」と聞き返すのがほぼ同時だった。
 もちろん匠が俺の言葉に耳を貸すはずなんかない。一文字さんが会話に興味を持ってくれたことに気をよくした様子で匠は何度もうなずいた。
「そうそう。さっきだってちょっと連勝したからって嫌味ったらしく俺と腕相撲で勝負しろとかいうしさ」
 それに関しては一文字さんに負けたこともあって強く言い返せない。俺が黙っているのをいいことに匠は調子に乗って喋り続ける。
「この前なんて、ボウリング行ったらストライクばかり取って見せつけてくるんだよ。その上買ったらジュースおごりとか言い出して。ひどいと思わない?」
「あ、あの時はちゃんとハンデつけてやっただろ」
 匠の言い方では俺が有利な状況で一方的に勝負を持ちかけたのだと誤解されかねない。慌てて言い添えた。
 一文字さんの方は俺たちが言い合っているのが漫才のようにでも見えるのかにこにこしている。
「へー、そうなんだ。でも穂刈くんってボウリングは得意なんだね。いいなあ」
「まあね、腕相撲は弱いみたいだけど。茜ちゃんもボウリング好きなの?」
「うん、たまに行ったりするよ」
 それを聞いて匠の目が光ったのがわかった。
「だったらさ、今度3人でボウリング行こうよ。罰ゲームって事でこいつのおごりでさ」
 勝手に決められても困る。俺がそう抗議する前に一文字さんも手を振った。
「えっ、そんな、穂刈くんに悪いよ」
 一文字さんは戸惑った様子でいるが匠はあきらめない。
「じゃあおごりじゃなかったら? 茜ちゃん、ゴールデンウィーク中は毎日バイト?」
「う、ううん。……最近忙しかったし、一日くらいは遊んでもいいかな。あまり遅くまではいれないけどさ」
「それじゃあ決まりだね」
 匠は満足そうに笑っているが、俺は唐突な展開に唖然とするしかない。
 二人が日程を決めていくのを他人事のように眺めていた。


 せっかく一文字さんの予定を開けさせて取り付けた約束だというのに、匠のやつはなにやら不満があるようだった。
「考えたんだけどさ、お前と3人でボウリング行ったって、俺が引き立て役になるだけだと思わないか?」
 翌日の放課後、珍しく匠の方から「一緒に帰ろう」と誘ってきたかと思ったらそんな事を言い出すものだから俺は呆れてしまった。
「だったらなんだよ。俺に八百長でもしろって言うのか?」
「ああ、それもいいね。でも純にそんな器用な真似できないだろ」
 失礼なことを言われたと思ったが俺も同感だった。
「八百長よりも確実な方法があるよ。今から予定が入ったことにでもして俺たちを二人っきりにして欲しいんだ」
「断る」
 半ば無理やり人を巻き込んでおいて何を言っているんだ。
 だいたい、今度行くボウリング場は俺の家からもそんなに遠くない場所にあるのだ。
 下手に出歩いて見つかるのも嫌だったし、だからと言って匠のためにせっかくの祝日をずっと家の中で過ごしてやる義理もない。
 それに、俺だって腕相撲で情けないところを見せてしまった分、少しはいいところを見せたいくらいの気持ちはある。
「ちぇ、友達のために協力してくれたっていいじゃん」
「…………」
 匠は恨めしそうな顔をしているが、俺が家にこもっている一方でこいつが一文字さんとのデートを楽しんでいる姿を想像するとなんだかおもしろくなかった。
「あーあ、もうちょっと作戦考えるか……」
 とはいえ、すぐにはいい手が思いつかない様子で、結局その後はとりとめのない話をしていた。


 その後は何も言ってこなかったから、匠もおとなしくボウリングを楽しむことにしたんだと思っていたら、あいつは当日の朝になってからとんでもない連絡をよこしてきた。
『あ、もしもし、純?』
「どうしたんだ? ……お前、まだ家なのか?」
 俺は受話器を持ち替えて腕時計を見た。匠の家は少し離れているので、この時間に悠長に電話をかけている暇はないはずだ。
「寝坊でもしたのか?」
「うーん……今日の約束のことなんだけど、ちょっとね」
 歯切れが悪い、というよりはもったいつけるようにして匠は言葉を切った。嫌な予感がする。
「早く言えよ」
 だからと言って、あまりのんびり電話をしていたら俺まで遅刻しかねない。仕方なく急かすと、あっけらかんとした声が返ってきた。
「やっぱり、ボウリング行って茜ちゃんにかっこ悪いところ見せたくないだろ? 今日は俺、遠慮するから二人で楽しんで来いよ」
「……は!?」
 大声を出してしまい、テレビを見ていた姉貴に迷惑そうに睨まれた。だが、俺にとってはかなりの非常事態だ。
「お前がボウリング行こうって言い出したんだろ、責任とって遅れてもいいからちゃんと来いよ」
 そうは言ってみたが、無駄だろうなというのは俺にもわかっていた。
 きっと匠はこの前の下校の時からこうするつもりでいたのだ。俺が協力を断った時から。
 電話越しでも俺がうろたえているのは向こうに伝わっているようで、匠はゲラゲラ笑っている。なにがそんなに楽しいというんだ。腹立たしい。
「まあいいじゃん、たまには女の子と過ごす休日ってのも。お前だって一文字さんの事少しは気になってるんだろ?」
「! き、気になってなんか……!」
 俺は彼女とろくに話したこともないというのに、どうしてこいつはすぐにそういう方向に話を持っていきたがるんだ。
 顔が赤くなるのが自分でもわかって、姉貴に気付かれるのではないかとひやひやしながら様子をうかがう。
 幸い姉貴の方は電話の相手が匠だとわかっているから、俺が騒がない限りはこちらの方など全く気にしていないようだった。
「そう? ま、どっちにしても、俺ももう別の子との約束入れちゃったんだよね」
 さすがに駅前で鉢合わせたらまずいから遊園地に行くつもりなんだ、とかなんとかぺらぺら喋っている。そんな事はどうでもいい。
「お、お前、本当に来ないつもりなのか?」
「もちろん」
 俺は頭を抱えた。急に一文字さんと二人で遊べと言われてもどうすればいいんだ。
「ほら、早くいかないと遅刻するぜ」
「……わかってる」
 じゃあな、と言おうとする前に匠の癪に障る声が耳に飛び込んできた。
「ま、せっかくの誕生日なんだし、いい休日にしろよ。じゃあな」
 反射的に叩きつけるようにして受話器を置いた。
 予定を決めるときは一切その話をしなかったから知らないのかと思っていたが、そういうわけではなかったのか。
 確かに今日は5月5日。俺の誕生日だった。


 俺と2人きりだと知ったら「じゃあ帰ろう」と言い出すのではないだろうか。不安に思いながら一文字さんを待つ。
 休日の駅前広場は人が多かったが、彼女が向こうからやってくるのはすぐに見つけることができた。
 俺を探してきょろきょろしている様子だったのでこちらから声をかける。
「い、一文字さん。おはよう」
「やあ、おはよう! 坂城くんはまだ来てないの?」
「それが……」
 まさか本当のことは言えなかったから急用で来れなくなったらしいと説明する。
 それ以上の言い訳は考え付かなかったので追及されたらどう答えるべきか気を揉んでいたのだが、一文字さんの方は特になんとも思わない様子であっさりうなずいた。
「そっかそっか、それなら仕方がないよ。じゃあボクたち二人で対決だね」
 そしてそのままボウリング場へ向かって歩き出すのを俺は慌てて追いかけた。
 震える手をポケットの中で握りしめる。こうなってしまった以上覚悟を決めて極力ぼろを出さないようにしたい。
 まずは会話でもしなければと思うのだが、何を話せばいいだろう。どうせ室内で遊ぶのに天気の話題を出すのは的外れだろうか。
 そういえば、以前姉貴が新しい服を見せびらかしてきたときに、女子の私服はとりあえず褒めないと駄目なんだとか言っていたような覚えはある。
 だが、今日の一文字さんの服装は白いTシャツにオーバーオールというシンプルなもので、どう褒めたものかよくわからない。
 俺としてはあまり女子っぽい服装で来られるよりは緊張しなくて済むのでありがたいし、一文字さんの活発な雰囲気にはよく合う服装だとは思うのだが。
 また、気が重くなるのは話題がないことだけではない。
 こうやって2人で歩いているところを知り合いに見られてしまったらどう言い訳をすればいいのか。
 俺がとやかく言われるのはともかく、一文字さんには迷惑をかけてしまうのではないか。
 こちらはそんな事を心配しながら歩いていたし、彼女の方も早く遊びたい様子で脇目も振らず歩いていたので、結局俺たちが口を開いたのはボウリング場に着いてからだった。
「ねえねえ、3ゲームパックでいいよね?」
「あ、ああ……」
 財布を開きながら料金表を見ると、今月誕生日を迎えるのであれば多少割引してもらえるような事が書いてある。
 少し迷いつつ受付に学生証を出して今日が誕生日だと申し出る。
 案の定、マニュアル通りの「おめでとうございます」という言葉にかぶさるようにして一文字さんが食いついてきた。
「え、穂刈くん誕生日なの? うわー、おめでとう! 言ってくれればボクも簡単なお菓子くらい作ってきたのに」
 祝日が誕生日だったから、女の子にこうやって祝いの言葉をかけられるだけでも生まれて初めてだ。
 なんだかむずむずした気持ちになって目をそらす。
「い、いや……誕生日なんて誰にでもあるし、そんなに気を遣わなくても……」
「そうかなあ、それでも誕生日って嬉しいもんだと思うけどな、ボク。あ、それとも穂刈くん甘いもの嫌い?」
「そういうわけじゃないが……」
「じゃあさじゃあさ、好きな食べ物は?」
「こ、米……」
 答えてしまってから、他に言いようはないのかと少し後悔した。一文字さんも食材で答えられるとは思わなかった様子できょとんとした顔だ。
「お米? おにぎりでもチャーハンでもどんぶりでも何でもいいって事?」
 恥ずかしくなりながら頷くと一文字さんがくすくす笑った。
 単純な奴だと思われているような気がしたが、こうやって一文字さんの笑顔を前にしていると意外と嫌な気はしなかった。
「それじゃあはじめよっか」
 じゃんけんの結果、俺から投げることになった。
「…………」
 ボウリングであれば直接触れ合うことがないから普段の調子で投げられるだろうと考えていたのだが甘かった。
 玉を持って立っていても後ろから一文字さんの視線を感じ、体がこわばってしまう。
 当初の予定通り匠がいれば、どうせ匠は気を惹くためにあれこれ話しかけるんだろうから気ままに投げることができただろうに。
 もしかするとあいつの狙いはこれだったんじゃないだろうか。自分が運動が得意ではないから俺に女子の前で醜態を演じさせるという。
 そんな被害妄想まで飛び出してくる始末で、結局俺の最初の投球はガーター、次に投げたボールも結局1本しか倒せないというさんざんな結果だった。
「……だ、大丈夫だよ、まだ始まったばかりだから!」
 慰めるような笑顔で俺に声をかけると、一文字さんは軽快な足取りでボールをつかんでレーンに向かった。そして力いっぱい投げる。
「やったー、ストライク!」
「…………」
 はしゃぐ一文字さんに無言で拍手を送る。このままではまた負けてしまいそうだ。
 憂鬱な気持ちを切り替えるように深呼吸をした。
 俺はなんのために剣道をやっているんだ。こういう時こそ平常心にならなければ。
 自分にそう言い聞かせたところですぐには体のこわばりは取れない。それでも、回を重ねるうちにだんだん一文字さんに見られるのも気にならなくなってきた。
 それに、一文字さんの方もフォームは力強かったがボールのコントロールはあまり得意ではないようで、ストライクを取ったかと思ったら次の回はガーターだったり、全体のスコアはそこまでいいわけではなかった。
「あーあ、変な方向に行っちゃった……」
 残ったピンを倒そうと投げた玉があさっての方向に行き、一本も倒せないままレーンの向こうに吸い込まれていく。
 ボールの行方を見届けた一文字さんは残念そうに肩を落としたが、振り返って俺と目が合うとにこっと笑った。
「さ、頑張って!」
「あ、ああ……」
 結果が良くても悪くても、一文字さんは楽しそうにしている。そのことに気付いて、俺の余計な力が抜けていくのがわかった。
「……よし!」
 2回連続でストライクを出せた。
 思わずガッツポーズをしてしまい、浮かれてしまった自分が少し恥ずかしい。
「すごいすごい! 次でターキーだよ!」
 だが、弾んだ声に振り返ると一文字さんが自分の手柄のように椅子から立ち上がって喜んでいる。
 俺はそんな彼女を素直にかわいいと思った。


 結局ターキーは出せないまま2ゲーム目が終わった。
「ちょっと休憩しないか?」
 さすがにずっと体を動かしていると喉も乾いてくる。
 ジュースでも買おうかと思ったのだが一文字さんはどうしようか考え込んでいる様子だ。
「……あ、ごめんごめん、そうだね、ちゃんと水分補給しないと体にも悪いもんね」
 俺の視線に気付いて慌てて立ち上がる。
 だが、自販機の前に立つとまた悩んでいる。
「うーん、そんなに飲みたいのないなあ……もったいないし、買うのやめとこうかな、ボク」
「そ、そうか」
 とはいえ、自分だけ飲むのは気が引ける。中途半端に財布の口を開けたまま立っていると一文字さんが明るく言った。
「いいよいいよ、穂刈くんは気にしないで買いなよ。ボクはそこまで喉乾いてないし」
 そう言われて一人で遠慮なくものを飲めるほど無神経ではないつもりだったが、うまく立ち回れるほど場慣れしているわけでもない。
 沈黙に急き立てられるようにして小銭を入れた俺は、目についたミネラルウォーターのボタンを押して出てきたペットボトルをそのまま差し出した。
 唐突におごられる格好になって一文字さんは目を白黒させている。
「えっ、なんで?」
「き、今日は匠のせいで無理やり付き合わせちまっただろ。だから、あ、いや、匠の行動で俺が責任を取るのもおかしいんだが……そ、そうだ、そもそも腕相撲で負けたから俺がおごるって話だったよな」
 自分でも支離滅裂なことを言っているのがわかる。
 ボウリングで動いていた時とは違う種類の汗が噴き出してくる。
「……そっか。ありがとう、穂刈くん」
 なので一文字さんが水を受け取ってくれた時はほっとした。もしかしたら必死になっている俺を哀れに思ったのかもしれないが。
 それで少しの間放心していると、一文字さんが自分の小銭を自販機に入れている音で我に返った。
「誕生日なんでしょ、今日。穂刈くんのぶん買ってあげるよ。プレゼントだって思えばもったいなくないしさ」
「え、いや、その」
「穂刈くんが決めないならボクが勝手に買っちゃうけど」
「すまん……」
 申し訳ない気持ちになりながら缶コーヒーのボタンを押す。
 これでは結果的に自分で自分の飲み物を買ったようなものじゃないか。
 それに、水なら嫌いな奴はいないだろうと思って勝手に選んでしまったが、一文字さんは本当はもっと別のものが飲みたかったのではないだろうか。
「ねえねえ、穂刈くんって本当にボウリング得意なんだね」
 だが、レーン手前の椅子に座った一文字さんの表情からは特に不満の色は読み取れない。
「さっきもストライクとかスペアとかたくさん取ってたしさ。びっくりしちゃったよ、ボク。最初はガーターとか多かったけど、具合でも悪かったの?」
「い、いや、少し緊張してて……」
 先ほどの動揺が残っているせいか一文字さんの聞き方が率直だったせいか、俺もつい素直に答えてしまった。
「緊張? なんで?」
 ただ遊んでいるだけで緊張する人間がいるなんて想像もつかないのだろう。一文字さんは不思議そうな顔だ。
「お、俺……女の子と出かけるなんて初めてだから、それで……」
「えっ……」
 笑い飛ばされるんじゃないかと思っていたのに一文字さんに頬を染められてしまい、さらに俺は落ち着かない気分になる。
「そ、そうなの? ボクみたいな子が相手でも女の子だって思って緊張する?」
 ボクみたいな、という言葉の意図がよくわからない。一文字さんは紛れもなく女の子だ。
 俺が頷くと、一文字さんはますます恥ずかしそうな顔をしてうつむいた。
「…………」
 自分が照れたり赤面するのはいつもの事だが、逆に目の前の女の子に照れられるのは生まれて初めてだ。
 体が熱い。冷やさなければ。
 震える手でコーヒーを口元に運ぼうとしたが、缶を落としてしまう。
「あっ」
 落ちていく途中で缶が俺の腹に当たり、その拍子に俺の上着にコーヒーがかかってしまった。慌てて床に転がった缶を拾い、床や服をティッシュで拭う。
「あー、ダメダメ、変にこすると落ちなくなっちゃうよ。いいよいいよ、ボクがやってきてあげるから脱いで」
 断る間もなく詰め寄られて言われるままに上着を渡す。中のシャツが無事なのは幸いだった。
 それにしても、なんでさっきの俺は緊張してたなんて言っちまったんだ。
 一文字さんも戸惑ってたじゃないか。
 いたたまれなくて走り出したいのを我慢しながら待っていると、ほどなくして一文字さんが戻ってきた。
「お待たせ。きれいになったと思うんだけど、どうかな?」
 返された上着を見ると、一文字さんの処理がよほど適切だったのかすっかり元通りになっていた。
「すごいな。助かった、ありがとう」
「へへへ、どういたしまして。ほら、ボクいつも夏服でしょ。だからこういうの慣れてるし、シミ抜きも持ち歩くようにしてるんだ」
 そう言って一文字さんは手のひらくらいの大きさのシミ抜き剤を俺に見せた。
 確かに、考えてみれば一年中夏服を着て登校していれば汚してしまう機会は多そうだ。だが、思い起こす限り記憶の中の一文字さんはいつも清潔な白い服をまとっている。
「でも、大変じゃないのか? 制服も、冬服の方がよかったんじゃないのか」
 たとえば、彼女とも仲のいい赤井さんなんかは年中冬服を着ていたはずだ。立ち入った質問かもしれないが、思わず口にしていた。
「全然、全然。慣れちゃえばどうってことないよ。それに、白い服を着た方がなんだか気持ちよくない? 気分一新! って感じでさ」
 正直、俺が彼女と同じ立場に立たされたとしてこんなに明るく振る舞える気はしない。
 俺は改めて一文字さんの服を眺めた。オーバーオールの下に着ているTシャツも制服と同じように白い。
 今まで、学校で一文字さんの事を目で追ってしまうのは1人だけ夏服を着ているからだと思っていた。
 だが、もしかしたらそういった日々の努力を無意識のうちに感じ取った結果、彼女のいる所だけが輝いて見えているのかもしれなかった。
「……そ、そろそろ再開するか」
「うんうん、そうだね! ずっと喋ってても時間がもったいないからね」
 唐突に話を打ち切って立ち上がった俺を一文字さんは不審に思わない様子だ。
 これ幸いと俺は顔を不自然なくらいレーンに向けたままボールを持つ。
 そうでもしないと顔がこれ以上なく熱くなっているのを感づかれてしまいそうだ。早く動いてボウリングの熱気のせいにしたい。
『お前だって一文字さんの事少しは気になってるんだろ?』
 深呼吸する俺の脳裏に今朝言われた言葉がよみがえる。
 その時はいつものようにくだらないことを言っていると思ったが、これが恋だというのか。まさか。
 混乱したまま、並んだピンに向かってボールを投げた。


「あー楽しかった。満足、満足」
 スコアが印刷された紙を渡すと一文字さんは熱心に自分の点数を見ている。
 3ゲーム目もろくな結果が出せなかった俺の方は改めて結果を振り返る気になれず、紙を小さくたたんでポケットにしまいこんだ。
「穂刈くん、今日はありがとう。よかったらまた誘ってよ。絶対に時間作るからさ」
 顔を上げた一文字さんにそんな事を言われて、俺は声も出せないまま首を縦に振った。
 これは果たして社交辞令なんだろうか。それとも本気にしてまた誘ってもいいのだろうか。
「それじゃ、ボク、家のことしないといけないから。バイバイ」
 ボウリング場の外に出ると、一文字さんは軽く手を振ってからまっすぐ人ごみの向こうへ消えて行った。
 俺はそれを見送った後もすぐには帰る気にはなれずに家とは逆の方向に歩き出す。
 家族と顔を合わせてしまうと今日の出来事が色あせてしまうようでもったいなく感じる。
 歩きながら自分の上着の、さきほどコーヒーをこぼしてしまった箇所にそっと触れてみた。
 もちろん伝わってくるのは自分の体温だけだが、彼女がこの服に触れていたのだと思うとそれだけで鼓動が早くなってくる。
 こんな調子で、これからどうしたらいいんだ。明日だって学校で彼女と顔を合わせるというのに。
 もやもやした衝動がこみあげてきて、気が付いたら俺は走り出していた。




 書きながら私は匠を便利に使いすぎじゃないか、とも思ったんですがやっぱり匠がいないと純は女子にちょっかいかけられなさそうなイメージがあります。
 2017年のカレンダーはちょうど2年目と同じなので、純の誕生日当日に完成できてよかったです。

2017. 5. 5更新

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