雨降って 雨に濡れた肩を適当に拭きながら、待ち合わせ場所の改札前へ急ぐ。 「一文字さん」 改札の近くの柱に寄りかかり、退屈そうに時計と人の流れを交互に眺めていた一文字さんは俺が声をかけるとぱっと笑顔になった。 「穂刈くん、おはよう! ……あと、お誕生日おめでとう!」 そう言って彼女は鞄の中から四角い包みを取り出した。 「あ、ああ……ありがとう」 今日で俺は19歳になった。 その事はわざわざ彼女には伝えていなかったが、祝日だから遊びに行こうということで山へ遠出する約束はしていた。 これまでは山に行ったときは釣りをして彼女の晩飯に貢献するのが常だったのだが、もう彼女も大衆食堂で本格的に働き始めたしそこまで切羽詰っていないからと言われ、今日はボートにでも乗ってのんびり遊ぶ予定だった。 しかし、こうやってプレゼントを前にしてみると、ちゃんと覚えていてくれたのかという驚きと、そんな自分に対して今は恋人なのだから当然だろうと呆れる気持ちが同時に浮かぶ。 俺はできるだけそれを表に出さないようにしながらプレゼントを受け取った。 このラッピング用紙に入っているロゴは駅前のデパートのものだろう。 デパートとはいっても若者向けの雑貨も多く取り扱っている店だから、それだけでは中身がどういったものなのか全く推測できないが。 「後で開けてもいいか?」 今すぐ俺の反応を見たかったのか一文字さんは少し不満そうな顔になったが、人の行きかう駅の構内で包装紙を破る気にはならない。 俺は鞄にプレゼントをしまって券売機へ向かおうとする。 「ねえねえ……今日天気悪いし、山に行ってもあんまり遊べないんじゃない?」 遠慮がちに声をかけられて俺は顔をしかめた。 たしかに、外は傘もいらない程度ではあったが小雨がぱらついている。 俺はこれくらいの雨なら大丈夫だろうと思っていたが、天気の変わりやすい山の上だとどうだろう。 それに、今日の一文字さんは春らしい淡いクリーム色のワンピースを着ていて、おそらく最近買ったものなのだろう。俺は初めて見る服だ。 あまり汚したくないんだろうなというのはすぐにわかった。 「…………」 どうしたらいいのか迷って俺が立ち尽くしていると、一文字さんがため息をついた。 「せっかくのお休みなんだし、カラオケでも行こうよ。ここから近いしさ」 「すまん……」 歩き出す一文字さんを、俺は沈んだ気持ちで追いかけた。 もちろん、俺だって今日の天気予報はチェックしていた。降水確率が低くないのも一週間前くらいにはわかっていた。 いつもだったら事前に電話をして、場所の変更の相談をしていたはずだった。 それをしなかったのは、一年前の出来事が心の奥にずっと引っかかっていたからだ、とカラオケの受付で手続きをする一文字さんを眺めているうちに気が付いた。 一年前の俺の誕生日。 あの時も俺たちは山へ遊びに行く予定でいて、駅で待ち合わせをしていた。 ようやく一文字さんがやってきて、さあ山へ行こうとしたところに、あいつが声をかけてきたのだ。 「おーい、純!」 匠が現れるよりはマシだったが、正直言ってこれから女子と出かけるというのに知り合いに出くわすのは気まずい。 それで俺は多少苦々しい気持ちになったのだが、一文字さんはそれ以上にあいつの出現にうろたえていた。 「ぐ、偶然だね……。きょ、今日は誘われちゃって……」 おろおろと視線をさまよわせながら、言い訳のような言葉を口にする。 あいつのほうも困ったように俺と一文字さんを見比べている。 その視線に蔑むような色は感じられなかったが、俺は胃が締め付けられるような思いを味わった。 あいつも俺が彼女に一年前から片思いをしているのは知っているはずだった。陽ノ下さんにも協力してもらい、デートに付き添ってもらったこともある。 なのにこれでは俺の方が浮気相手のようじゃないか。 「……お、俺たち急ぐから。じゃあな」 耐えられなくなった俺は一文字さんを無理やり促して改札へ向かう。 「あ、あの、切符……」 「先に買っておいたから」 一文字さんを待つ間、手持無沙汰だったので先に二枚分切符を買っていた。 祝日で券売機は混んでいるから、と思ってそうしただけだったのだが今となっては数分前の自分に感謝するほかない。 あいつの視線から逃れたい一心で足早に改札を通り、ホームに立つ。 春の花の香りを含んだ風に吹かれると少しほっとした気分になった。 「……彼も、今日どこかに行くのかな」 それなのに一文字さんが口にするのはあいつの話題だ。 いらだった俺はぶっきらぼうに答えた。 「そうなのかもな」 「誰かと一緒なのかな……」 そんなに細かく観察しているわけではなかったが、なんとなく待ち合わせの最中に暇だから声をかけてきたような雰囲気はあった。 相手が匠ならまだ彼女にとってよかったのかもしれないが、匠は連休中は毎日デートだと言っていた。きっとあいつの相手も仲良くしている女子のうちの誰かなのだろう。 だが、どこまでそれを一文字さんに言うべきなのか迷って俺は結局短く「さあな」と答えるしかない。 その様子に俺が機嫌が悪いと判断したのだろう、一文字さんが申し訳なさそうに目を伏せた。 「あ、あの、ごめんね、さっき……」 「…………」 一文字さんの謝罪をさえぎるように電車が到着した。俺も返事をせずに車両に乗り込む。 連休中とはいえ、まだ次の日も日曜だったせいか列車の中は思ったよりは混んでいない。 二人掛けの座席が空いていたので一文字さんに窓際を勧め、俺も隣に腰かけた。 「……一文字さんは、あいつのことが好きなのか?」 しばらくはお互い無言で座っていたが、電車が動き出すころになってようやく決心がついて尋ねると、一文字さんは頬を染めた。 「うん……実はそうなんだ」 そして、認めてしまったことで勢いづいたのか、あいつが学年トップの成績を維持しているところが勉強の苦手な一文字さんからしたらとてもかっこよく見えるんだとか、吹奏楽部で練習している姿が根性があるだとかそういう話を延々聞かされる。 好きな相手について、目をきらきらさせて語る姿はこういう状況でなければかわいかったのだろうが、今の俺にとっては地獄だった。 適当に相槌を打ちながらあまり話の内容を脳味噌には入れないようにする。そうでないと身が持たない。 それで、彼女も降りる駅が近づいてきて、喋りすぎたことに気付いたのだろう。はにかんだ表情で付け加えた。 「……だから、さっきはつい誘われちゃったなんて言い訳しちゃってごめんね、穂刈くん。別に誘われたのが嫌とかじゃ全然ないんだ」 嫌じゃないと言われて少し浮上しかけた気持ちも、次の言葉に無残に突き落とされる。 「穂刈くんの事は大事な友達だと思ってるし、よかったらこれからも誘ってよ。ボク、恋の話ができるような友達、いないから……これからも彼の話、したいしさ」 本当はその時点であきらめればよかったのかもしれないが、俺は未練がましくあの後も一文字さんを遊びに誘っていたし、一ヶ月に一回、あるいは二ヶ月に一回くらいのペースで彼女も応じてくれていた。 そんな風に俺が一文字さんにまとわりつくものだから、心配したお兄さんに戦いを挑まれたりとか、その流れで昨年から挑戦状を送りつけてきた連中もその配下だったと知って驚いたこともあった。だがそれも彼女が別のやつを好きなことに比べれば些細なことだった。 だいたい、俺と過ごしているときの話題だって、あらかじめ宣言されていた通りあいつの話題が大半だったのだ。 彼女は彼女であいつを誘って遊びに行っているようだったから、この前はどこに行っただとかこういう事を言われただとか、そんな話だ。 中央公園に行ったときなどは歩いている自分たちが恋人同士に見えるんじゃないか、と調子のいい発言をされた事さえあったらしい。いつも以上にはしゃいだ様子で教えてくれた。 だからお兄さんの心配は全くの的外れだと俺は感じていて、河川敷公園に駆けつけた一文字さん自身も「穂刈くんは単なる友達なのに巻き込むなんて!」と激怒していた。 正直言って彼女のその発言はその日にくらったどの攻撃よりも一番堪えたし、それを聞いたお兄さんの憐れむような目は忘れられない。 とにかく、そういう状況だったから、俺はたびたびあいつに怒りを抱くこともあった。 俺が彼女に片思いをしているのは知っているのに、なぜ遊びに行って気を持たせるような事を言うんだと。 だが、あいつの様子を見ていると別に遊びに行くのは彼女に限ったことではないようだったので、直接その苛立ちをぶつけるのははばかられた。 それにもしあいつも一文字さんを好きだったことが判明してしまったら、俺は今度こそ立ち直れなくなる。 煮え切らない気持ちを抱えたまま、日々を過ごしていた。 そういった状況に変化が起きたのは、バレンタインの日の事がきっかけだった。 『大事な友達』である俺の分も彼女は手作りのチョコを用意してくれていた。 「はい、穂刈くん。チョコだよ」 さっぱりした口調で差し出されたそれを、複雑な気持ちで礼を言って受け取る。 「……あいつの分は、もう渡してきたのか?」 正月からこっち、一文字さんとゆっくり話す機会がなかったから彼女がバレンタインに向けてどういう計画を練っているのかは全く知らなかった。 ただ、これまでの勢いからすると当然なんらかのものは用意しているのだろうと俺は予想していたのだ。 しかし一文字さんは、俺の問いかけに表情を曇らせた。 「ううん……実は彼の分、用意してないんだ、ボク」 「え?」 思わず聞き返すと、一文字さんは周囲を気にするようなそぶりをした。休み時間の廊下は人であふれかえっている。 「……ねえねえ、よかったら今日は一緒に帰ろうよ。彼のこと、相談したいんだ」 俺は戸惑いながらうなずいて、ちょうどその時にチャイムが鳴った。 「それじゃあ、下駄箱の所で待ってるから」 当然だが、その後の授業については全く集中できなかった。 一文字さんはあいつにはチョコを渡さないのか? もうあいつのことは諦めたのか? だが、相談したいことがあるとも言っていた。 さきほどのチョコを差し出した時のあっさりした様子からまさか俺の想いが通じて……ということはないだろうが、また別の男を好きになったとか言われたら俺はどうすればいいのだろうか。 授業が終わり、できるだけすぐ下駄箱に駆けつけたかったのだが、こういう時に限って俺は掃除当番だった。 他のやつらが真面目に掃除をしているのに俺だけが手を抜くわけにもいかず、はやる気持ちを押さえながらほうきを持つ手を動かした。 それで俺がようやく下駄箱に着いたころには、一文字さんは心なしか青い顔をして立っていた。 「すまん、掃除当番だったのをすっかり忘れてたんだ。寒くなかったか?」 「平気平気。コートも着てるし大丈夫だよ」 そうは言っているが、先ほど喋った時よりも彼女の顔色は悪いように見える。 どちらにしても冷たい風の吹きこむ玄関先で立ち話を続けるわけにはいかず、俺たちは歩き出した。 「……で、相談ってなんなんだ? どこかに寄った方がいいか?」 一文字さんの家は学校からすぐ近くなので、あまり込み入った話なら終わる前に家に着いてしまう。 それは彼女自身も考えていたようで、学校の近くの植物園にでも行こう、とすぐに提案された。 「大人2枚」 俺がまとめて払うと、一文字さんが慌てて自分の分を払おうとする。 「いいよ、ここは俺が払う」 「でも、ボクが相談に乗ってもらうのに悪いよ」 「チョコの礼だ。……ホワイトデーの頃には、俺たちもう卒業してるだろ」 わざわざ義理チョコの礼をもらうために呼び出されるほど一文字さんも暇ではないだろう。 彼女もそれに気付いたのか、あまり納得いっていないような浮かない表情ではあったが、ようやく財布をしまってくれた。 平日の夕方という時間帯のおかげか、植物園の中はあまり人がおらず、これなら落ち着いて話せそうだった。 舗装された通路を歩く。 きれいな花が生えているコーナーの方が彼女の気分も晴れるだろうかと思ってさりげなくそちらへ向かってみたが、一文字さんの方はあまり興味は惹かれないようでぼんやりしている。 「……穂刈くんは、植物って詳しい?」 そう尋ねる一文字さんの方は、自然の多い場所は好きだったがそこまで個々の植物に関して詳しいわけではなさそうだったし、そもそも知識をひけらかすような発言をされるのが嫌いなタイプだ。 彼女の気分を害さないように慎重に答える。 「俺は家の手伝いをすることもあるからな……それなりには」 「ああ、そっか、そうだよね、穂刈くんの家花屋だったもんね」 一文字さん自身も母の日だとか、何かの折に花を買いに家に来たことはあったはずだ。 思い出したようにうなずいている。 「男の子って花が好きな女の子の方がかわいいと思う? 穂刈くんはどう?」 「お、俺は別に……あいつがそう言ったのか?」 「そういうわけじゃないんだけど……」 浮かない顔で呟いて、手近に咲いていたバラの花をつついている。しばらくそうしていた後に、視線は花に向けたまま口を開いた。 「あのね、この前見ちゃったんだ。……彼と麻生先生が植物園でデートしてるとこ」 「えっ?」 あいつも幼いころはひびきの市に住んでいて、陽ノ下さんや麻生先生とはそのころからの知り合いだとは聞いていた。 だが、さすがに俺たちの担任と休日に遊んでいるというのは少なからず衝撃だった。 「い、いや……でも、ただ遊びに行ってただけなんじゃないのか。麻生先生とは昔からの知り合いだって言うぜ」 こちらにとっては驚きの事実でも、陽ノ下さんや他の女子とも定期的に遊ぶあいつにとっては別に麻生先生と遊びに行くのも不自然なことではないのかもしれない。 そう思ったのだが、一文字さんは首を振った。 「でもさ、文化祭の劇も麻生先生がお姫様やってたでしょ。……すごくきれいだった」 「それは主役の子が欠席したからで……」 「配役はそういう事情かもしれないけど、彼だって舞台の上ですごく嬉しそうだったよ。だから気付いたんだ。彼は麻生先生の事好きなんだなって。ボクが誘ったら遊んではくれるし、ちゃんと優しいけどさ……」 「だからチョコを用意しなかったのか?」 少しストレートに聞きすぎたかもしれないと一文字さんの表情が固まるのを見て後悔した。しかし、口に出してしまった言葉を取り消すわけにはいかないから返事を待っていると、一文字さんは肩にかけていた鞄に手をやった。 「……本当はね、チョコ作ってあったんだ、ボク」 鞄から丁寧にラッピングされた包みを取り出す。当然のように俺のもらったものよりも豪華で大きい。 「でも、ずっとどうしようか悩んでて……持ってきたなんて言ったら、絶対渡さないといけないみたいになっちゃうでしょ。それでさっきは用意してないって言っちゃったんだ」 「せっかくだから渡せばよかっただろ。あ、麻生先生の事を好きだなんてまだわからないじゃないか」 「……そうかな。さっき穂刈くんの事待ってる時にもね、彼が麻生先生の車に乗って帰るとこも見たんだ。それでも望みあるって思う?」 俺は言葉に詰まった。 本来なら、あいつが別の女性を好きなのであればそれは喜ぶべき事態だ。 しかしそれを一文字さんの前で露骨に出すわけにはいかない。だからと言って、望みがないのに無闇に励ますのは無責任だ。 だが、その望みがないというのは俺の願望や一文字さんの不安がそう思わせているだけではないのだろうか。 一文字さんは返事を返せずにいる俺に構わず続けた。 「穂刈くん。ボク、今日はチョコ渡せなかったけど、思い切って卒業の日に告白しようかなって迷ってるんだ。最後だしさ。穂刈くんはどう思う?」 すがりつくように見つめられ、俺は後ずさりそうになるのを必死でこらえた。 経緯はどうあれ彼女に頼られているのだからできるだけその気持ちに応えたい。 しかし結局、その場では俺も答えが出せず、宿題にしてもらうことにした。 卒業式当日までに決まればいいのだから、直前の日曜日にまた植物園で話そうと約束を取り付けた。 「…………」 帰宅した俺は、まっすぐ部屋に戻ってから二つのチョコレートの包みを取り出した。 どういうわけだかあいつの分まで俺が食う羽目になってしまった。 確かに、彼女からすればせっかくあいつのために用意したチョコを自分自身で食べたりお兄さんに食べてもらったりするのは気が進まないのだろう。そこで友達の出番というわけだ。 一つだけ救いだったのは、あいつへのチョコレートも包みが豪華で中身がたくさん入っているというだけで、物自体は同じもののようだったことだ。 少なくとも俺の舌には違いは感じ取れない。 これで中身も豪華版だったら冷静な気持ちで食えたかどうか自信がなかった。 どちらにしても、あまり食欲がわかなかった俺は味見程度につまんでから再び封をした。 再来週の日曜日まで猶予があるとはいえ、一文字さんの相談にきちんとした答えを出したい。 夕飯ができたと母親に呼ばれるまで、俺はそのまま頭を抱えていた。 そのまま一週間くらい考えていたが、結局はあいつの本心を聞きださないことには話にならない。 俺は帰ろうとするあいつを呼び止めて、河川敷公園で話そうと誘った。 特に何も疑問に思わない様子であいつは着いてくる。いつも通りの態度が今日は妙にへらへらしているように感じて無性に腹が立った。 「お前……彼女の事、どう思ってるんだ!」 気が付くと、河川敷公園に着くや否やあいつを問い詰めていた。 本当はもっと穏やかに聞くつもりだった。麻生先生と仲がいいというのは本当なのかとか、一文字さんとは無関係の所から聞いていきたかった。 だってそうだろう。 誰がわざわざ自分の好きな女子がお前の事を好きなんだ、なんて事を匂わせたいと思うのか。 俺は軽率な自分を恨んだが、あいつは何事もないような顔で彼女はただの友達だ、と言い放った。 「本当……だろうな?」 万が一嘘をついているなら絶対に許さんと思いながら見据えると、目の前のこいつもまっすぐに見つめ返してきた。 「ああ」 おそらくこいつの言葉に偽りはないのだろう。 俺はほっと息を吐いたが、急に呼び出されて痛くもない腹を探られたこいつは怪訝そうな顔をしている。 だからと言って馬鹿正直に事情をすべて話すわけにもいかず、適当なことを言って俺は急いで立ち去った。 とりあえずこれで今の所一文字さんとあいつが付き合う可能性はないとわかったわけだが、それはそれで新たな問題があった。 彼女にどう伝えるかだ。 匠のように口がうまければ別かもしれないが、どういう言い方をしても一文字さんが悲しむのは明白だ。 受験勉強以上に頭を悩ませたまま、日曜日を迎えた。 「やあ!」 伊集院大橋前に行くと、珍しく一文字さんが先に着いていた。やはりどういうアドバイスが出るかが気になるのだろうか。 そのまま連れ立って植物園へ向かう。 さすがに日曜日ともなるとこの前とは違い、家族連れやカップルでにぎわっていた。まさかまた麻生先生が来ていることはないだろうなと思いながら、できるだけ静かな場所を求めて歩く。 「あっちの並木道の方とかどうかな?」 花も咲かない、なんの変哲もない広葉樹が植わっているコーナーはあまり人の気を惹かないようで静まり返っている。確かにあのあたりなら話を聞かれる心配がなさそうだ。 しかし、並木道を背景にした一文字さんを見ていると、例のあいつと恋人同士に見えるとかいう話を思い出してむかむかした。 そんな俺の気持ちには気付かずに一文字さんが俺を見上げる。 「それで……どうしたらいいと思う? 穂刈くん」 彼女は俺が告白をしろと言ったらするつもりなのだろうか。あるいは告白はするべきではないと言ったら。 だが、俺がどういう事を言おうが、結局決めるのは彼女自身だ。 だったら俺の持っている情報はきちんと話し、あとは彼女に判断をゆだねようと思っていた。 「……この前、あいつと話したんだ。一文字さんの事、どう思ってるのか聞いた。……ただの友達だって言ってたぜ」 その言葉を聞いて、一文字さんは傷ついたように目を見開いた後に俺を睨みつける。 「聞いてくれたのは嬉しいけど……穂刈くん、ボクが彼の事好きだってばらしちゃったの?」 「い、いや、そうじゃないんだ。ただ話の流れでそういう話になっちまっただけで……」 慌てて俺が弁解すると、すぐに俺の言い分を信じたようだった。 「そうなんだ、疑ってごめんね。麻生先生の事はなにか言ってた?」 「すまん、さすがにそこまでは……」 「そっか……」 そして一文字さんは足元に視線を落とす。泣くのではないかと思ってはらはらしたが、無表情のまま俺の言った台詞を反芻しているようだった。 「ただの友達としか思われてないんだったら告白しても無駄だよね、やっぱり」 「それはそうとは限らないんじゃないか」 俺が即座にそう言うと、一文字さんは疑わしいものを見るような目で俺を見つめた。適当な慰めを言うのであれば許さない、といった様子だ。 だが、一文字さん自身、もともとあいつは麻生先生の事を好きかもしれないと思っているが、最後だから気持ちを伝えたいと考えていたはずだ。 それが無駄なことなのかどうか、俺だってこの十日間考え続けたのだ。彼女と同じ立場で。 覚悟を決めて、ずっと以前から用意していた言葉を口にする。 「一文字さん。俺……一文字さんのこと、好きなんだ。だから、どうしたらいいかなんて俺には公平な立場でアドバイスできない」 俺に告白されるなんて予想外だった様子で、口をぽかんと開けて絶句している。俺はそれに構わず続けた。 「ただ、俺だったらどうしたいか考えた。そうしたら、卒業したらもう会う機会はないんだから、きちんと気持ちは伝えたいって思ったんだ」 たぶん、自分で考えていた以上に自分の気持ちを隠して振る舞うのはストレスがたまっていたのだと思う。 寝耳に水と言った感じで呆然としている彼女には申し訳ないが、すっきりした気分になるのを感じていた。 「え……本当に? 嘘じゃないよね?」 聞き返されて俺は苦笑した。 話の流れから告白を促すための方便だと思われるのも仕方がないと思ったし、自分の気持ちを伝えてしまった高揚感もあって腹は立たなかった。 「本当なんだ。二年になって、同じクラスになった時からずっと好きだった」 「ほ、穂刈くん、全然そんなこと一言も言わなかったじゃない……」 本人に気持ちを隠していたのは彼女だって同じのはずだ。すぐにそれに気付いた様子で気まずそうに口を押えている。 「……急に変なことを言ってすまない。あいつに対してどうするかも、一文字さんが後悔しないようにしてほしいとは思っている。だけど、今言った事に嘘はないし、これ以上は応援できそうにない」 応援できない、なんて冷たい言い方だっただろうか。でも、紛れもない本心だった。 一文字さんは口元に手をやったまま、混乱した様子で考え込んでいる。こうやって二人で会うのもこれがきっと最後なのだと思うといつも以上に愛おしく感じた。 だが、ずっとこうしているわけにはいかない。 「そろそろここも混んできそうだな。帰ろうぜ」 順路に沿って、幼い子供がはしゃぎながら駆け込んで来るのが見えた。 一文字さんにはああ言ったし、自分でも告白した直後は満足感があったのだが、家に帰ってから時間が経つにつれ徐々に後悔の念も出始めていた。 我慢して友達として付き合い続ければいつかチャンスが訪れたのかもしれないという気持ちと、それが耐えられないから告白に踏み切ったんじゃないかと自分に言い聞かせる気持ちとが交互に俺に襲い掛かる。 一文字さんは今頃どうしているのだろう。あんな風に突き放した以上、もう俺には彼女の近況を知る権利はなかったが。 そう思っていたので、卒業式当日の朝、教室でバイト番長に呼び出された時には驚いた。 だが、考えてみれば俺は彼女に告白した人間だ。 お兄さんが何かの拍子でそれを知り、彼女の事を心配して俺と話そうと思っているのかもしれない。 話で済めばいいのだが、あいにく今日は部活なんてあるわけがなかったから竹刀ももちろん木刀も持ってきていない。 憂鬱な気持ちになりながらバイト番長についていく。 お兄さんからの呼び出しならいつも通り河川敷公園に行くのかと思っていたら、なぜかバイト番長は階段の方へ向かっている。 「バイト番長、いったい俺に何の用事が……?」 「黙って俺についてきな~」 気の抜けた口調で切り捨てられて、しかたなく黙って階段を上るしかない。このままだと屋上にたどり着くはずだ。 「さ、着いたぜ」 そして屋上に着くと、暴れるお兄さんと四天王、そして思いつめた顔をした一文字さんが立っていた。 「や、やあ……卒業おめでとう」 「……い、一文字さんもおめでとう」 間の抜けた挨拶を返しながら、どうして俺がここに呼び出されたのか? という疑問で頭がいっぱいだった。 「すまん、呼び出すやつを間違えてるんじゃないのか? なんだったら俺が今呼んでくるぜ」 「ち、ちがうんだ! 穂刈くんに話があったんだ、ボク」 そう言いながら一文字さんはちらっとお兄さんの方を見る。お兄さんは一文字さんを止めようとしているようだったが、さすがに三人がかりで押さえつけられては抵抗できないようで、引きずられるようにして屋上から追い出されていった。 「……よかった、これでやっと安心して話せるね」 口元は笑っているが、目は落ち着かない様子できょろきょろしているし手も祈るような形に組まれている。 その様子をできればずっと眺めていたかったが、早めに済まさないと卒業式に出られなくなってしまう。 俺がちらっと時計台を見たことで時間を気にしているのが彼女にも伝わったのだろう。緊張した様子で背筋を伸ばした。 「あの、あのね……穂刈くん、ボクのこと好きって本当に本当? 卒業したらもう会わないからってのも……」 「ああ」 一文字さんは就職だし、俺も入試を受けたときの感触はかなり手ごたえがあった。結果はまだ出ていなかったが、順調にいけば二流大学の理学部に進めるはずだ。 これからはわざわざ連絡を取り合わないと彼女と会う機会がなくなるだろう。そしてこうなってしまった以上、もうそのつもりは俺にはなかった。 「……ボクね、考えたんだ。確かに彼の事はショックだったけど……でも、穂刈くんの事は大事な友達だし……このまま会えなくなるなんてもっと嫌なんだ、ボク」 「いや、でも」 「ボクもこういう事言うの図々しいってわかってる。でも、どうせ会ってくれなくなるんなら正直な気持ちを言おうって思ったんだ」 確かに俺自身だって「もう会えないから」という理由で気持ちをぶつけたし、同じ理由で一文字さんも行動を決めるのはわかっていたが、こんな話をされるのは全く予想外だった。 しかし、会えなくなるのが嫌だと言われても俺はどうすればいいのか。 「だったら、一文字さんは俺と付き合ってくれるのか?」 どうせそのつもりは無いだろう。半ば嫌味のつもりで言ったのだが、一文字さんは迷いなく首を縦に振った。 「うん、いいよ。穂刈くんと付き合う。だって今日はそのつもりで呼んだんだ」 自分の耳に届いた言葉が理解できない。 俺がそのまま立ち尽くしていると、一文字さんが緊張した面持ちで近寄り、俺の手を取った。 「……あ、改めてよろしくね。穂刈くん」 こういう事情で俺と彼女は恋人同士になったのだった。 俺はカラオケの個室で歌う彼女を眺める。 本当は、去年の誕生日がああいった調子だったから、今年こそは山で楽しく過ごして嫌な記憶を払拭したかった。 一文字さんのほうは楽しそうに歌っているが、こちらの方はなんとなく初詣の日に大凶でも引いてしまったような縁起でもない気分だ。 大体、いまだに一文字さんが俺の恋人だということが俺は信じられない。 付き合うと言われたとはいえ、たった二ヶ月で、彼女だってついこの前まで別の男を好きだったというのに急に恋人らしいことができるわけもなく、今までと大差ない付き合いだ。 休日には遊びに行ったり、彼女が仕事が終わった後には待ち合わせて少し話したりもするが、家事があるからそうゆっくりも過ごせない。 この前匠に偶然会った時に、もう手はつないだかとかキスはしたのかとかさんざん聞かれたが、普通は二ヶ月もたてばそういう事をするものなのだろうか。 お前はどうなんだと聞き返してみたら、それは人それぞれだからとか適当なことを言われて煙に巻かれてしまい、悩みの種を増やされてしまっただけだった。 匠に言われたことは置いておくにしても、卒業式の前後で変わったことがあるとすれば、一文字さんからあいつの話題を聞くことがなくなったくらいだ。 そのあいつの話題がなくなったというのも、彼女の気持ちが無くなったからではなく、単純に俺に気を遣っているだけなのではないか、彼女にとって俺は単なる友人のままなのではないかと疑ってしまう。 あいつも麻生先生と付き合い始めたようだから、さすがにもう一文字さんと遊びに行くことはないと思いたいが。 「ねえねえ、穂刈くんも歌おうよ。さっきからあまり曲入れてないじゃない」 「あ、ああ」 一文字さんにせかされながら機械を操作する。 「別に俺に構わずに一文字さんがもっと歌ってていいんだぜ」 もともと俺はカラオケがそんなに好きではない。 よっぽど気晴らしをしたいような出来事があれば別だが、人に見られて歌うこと自体緊張するし、一文字さんとこうやって狭い部屋に二人きりという状況も余計落ち着かない気持ちになる。 「だめだめ、せっかく二人で来てるんだからさ。それに、穂刈くんの歌声好きだよ、ボク。もっと聞きたいな」 「そ、そうか……」 素直な言葉で褒められて一気に頬が熱くなる。しかし、一文字さんの口から俺に関連する何かが好きだ、なんて言葉が出たのはこれが初めてじゃないだろうか。 そんな調子で一文字さんに乗せられながら歌っているうちに退室時間になった。 「うわー……結構降ってるね」 カラオケから出ると、雨は先ほどより強くなっていてさすがに傘なしでは動けなさそうだ。 「穂刈くん、傘持ってる? ボク、折り畳み二本持ってきてるから貸してあげるよ」 なぜわざわざ二本も傘を持ち歩いているのだろうか。一本しかなければ相合傘もできただろうに。 そんな事を言うわけにもいかず、おとなしく傘を借りる。 「ねえねえ、よかったらうちに寄ってかない? お兄ちゃんもこの時間は出かけてるし、実は今日はお弁当用意してたんだ」 「弁当?」 「うん。天気が悪くなりそうだから持ってきてなかったんだけど、せっかく用意したから食べてほしいな」 そんな風に誘われて断るわけがない。 しかし、お兄さんがいないのに家にお邪魔して本当に大丈夫なのだろうか。後で八つ裂きにされそうだ。 いろいろな意味で緊張しながら門をくぐる。 「お、お邪魔します」 「えへへ、いらっしゃい。今お茶入れてくるからそこに座って待っててね」 居間に通され、示された先にあった座布団に腰を下ろした。 外から眺めるばかりで初めて家の中に入ったが、一文字さんが日ごろから家事をしっかり行っているおかげか落ち着く空間だと思った。 そのままぼんやり座っていると、台所の方から大きな声が聞こえてきた。 「あー! お兄ちゃんに食べられてる!」 「…………」 様子を見に行った方がいいだろうか。反射的に立ち上がったが、俺が行ってもなにもできることはないだろう。 所在なくうろうろしているうちに湯呑の乗った盆を持った一文字さんが戻ってきた。 肩を落としながら座卓の上に湯呑を置く。 「穂刈くんごめんね。せっかく用意したんだけど、お兄ちゃんに半分くらい食べられてて……ちゃんときれいに作ったのに……」 「い、いや、でも全部食われたわけじゃないんだろ? だったら残ってる分だけでも俺が食うよ」 「え? ほんとに? ありがとう」 一文字さんはほっとしたように微笑んで立ち上がる。 そして、しばらくしてから大きな皿を持って居間へ入ってきた。弁当を持ってくるだけにしては時間がかかってると思ったが、どうやら中身を盛り付け直したようだ。 「お待たせ!」 皿の上にはちらし寿司を握ったらしいおにぎりと、いなり寿司と、太巻きが並んでいる。 「本当はね、他にもおかずあったんだ。コロッケとか。でも、そっちの方はお兄ちゃんが食べちゃってたから……」 「いや、これだけあれば十分だ。いただきます」 ちょうど腹も減っていた。勢いよく食べていると、一文字さんが嬉しそうな表情になった。 「おいしい?」 「ああ」 しかし、きれいに整えられた部屋で、好きな女子に作ってもらったうまい料理を食っているのになぜだか落ち着かない。 窓の外からは雨音が聞こえ、その勢いに比例するように俺の気分も暗くなっていく。 「……なあ、一文字さんは俺と付き合ってて、楽しいか?」 まとわりつくもやもやした気持ちに耐えられず、ついに俺はそう口にしていた。 「え?」 「俺が無理やり弱みに付け込んで付き合わせてるようなもんだろ。もう会わないとかなんとか言って。本当は無理してるんじゃないのか?」 重ねて尋ねると、戸惑ったように瞬きを繰り返しながら言葉を選んでいる。 「たしかに前は彼の事好きだったけど……でも、ちゃんと穂刈くんの事好きだよ。穂刈くん真面目だし優しいし、一緒にいて落ち着くんだ、ボク。そりゃあ、急に恋人みたいにベタベタとかはできないけどさ」 「だから、それが結局無理してるって事なんじゃないのか。俺といて落ち着くってのも、友達相手にだって言えることだろ」 言い返すと、さすがに一文字さんもむっとしたようだった。 「なんでそうやって疑うのさ。付き合う前よりも今の方が穂刈くんに会うの楽しみにしてるし、今日だって、釣りじゃムードないかなって思ったからボート乗ろうって誘ったんだよ、本当は」 気を悪くさせてしまったのは申し訳ないが、にわかには信じられずどう返事をしたらいいのかわからない。 一文字さんはそんな俺を睨みつけながらワンピースの胸元をつまんだ。 「それにこの服だって、せっかくお給料ももらったしデートだからって新しく買ったのに。何か一言くらい言ってくれてもいいじゃない」 「す、すまん。よく似合ってる」 「今さら言われたって嬉しくないよ」 当たり前だ。ぴしゃりとはねつけられた俺はうなだれるしかない。 そんな様子にさらに怒りが収まらない様子で一文字さんは立ち上がった。 「まだボクのこと疑ってる? キスでもしたら信じてくれる?」 大胆な発言に、弾かれたように彼女を見上げる。一文字さんの方も一瞬しまったという顔をして、俺がそんな事をしなくていいと言うのを待っている様子だった。 だが、このままでは俺だって辛い。黙って待っていると、やけになったらしく勢いよく俺の横に腰を下ろした。 「……いいよ。穂刈くん、目閉じて」 これじゃ立場が逆じゃないかと思いながら指示に従う。 小さな手が俺の頬に添えられる。しばらくためらっている気配がした後にようやく柔らかいものが唇に触れた。 目を開けると、彼女は怒りと気まずさが入り混じったような顔で座っていた。 「こ、これで信じた?」 「本当にすまなかった……」 深く頭を下げると、一文字さんの勢いも落ち着いたようだった。残った怒りを吐き出すようにゆっくりと息をつく。 「……ううん、いいんだ。本当は穂刈くんの気持ちだってわからなくないよ、ボク。ごちゃごちゃ言われたから腹が立っちゃったけどさ」 だが、そう言っているわりに彼女の表情はまだ冴えない。やはり無理強いしてしまったのではないだろうか。 しかしそれを口に出すとまた怒りを買うだけだろうかと思って悩んでると、彼女も俺の言いたいことに気付いたようだった。 「別に嫌だったわけじゃないよ。……ただ、ファーストキスは男の子からしてほしかったなって、それだけ」 確かに、怒りにまかせてキスしたなんて言うのはムードも何もないだろう。 こちらとしてはキスできただけで満足だったが、一文字さんはロマンチックなシチュエーションを夢見ていたのかもしれない。 「じゃ、じゃあ、さっきのはもう忘れてくれ」 「えっ?」 ロマンチックにというのは俺にはどうしようもないが、せめて男からというのは叶えるべきだ。 目を見開いている一文字さんに、今度は俺の方からキスをする。 「…………」 「い、いや……一文字さんの理想とは違ったみたいだから、やり直ししようと思ったんだが……」 唇を離してもまだきょとんとしている様子だったので仕方なく説明するが、あまり理解されている気配がない。 やはり急にしたのが駄目だったのだろうか。 「すまん、もう一回やり直させてくれ」 再び宣言してから一文字さんの体を抱き寄せる。柔らかい感触に胸が高鳴り、もう一回と言ったはずなのに、二回、三回と連続で口づけてしまう。 そのうちに最初は固まっていた一文字さんの方も我に返ったようで、身じろぎして抵抗された。 「も、もういいよ、穂刈くん。あんまりされたら恥ずかしいよ、ボク……」 驚いて彼女を見ると顔も首も真っ赤になっている。もしかしたら俺は恥ずかしいことをしてしまったのかもしれない。 慌てて抱いていた腕を離し、部屋の端に逃げるように移動して彼女から距離を置く。 一文字さんの方も、こちらを直視できないといった感じでもじもじしながら座っている。俺の前でこういう表情を見せるのは初めてだ。 「……お兄ちゃんが男には気をつけろって言ってたけど、こういう事なんだ……」 「ぐっ……」 独り言のように呟かれた言葉に、悔しいがなにも反論できない。 以前お兄さんに戦いを挑まれた時はもっと他に遠ざけるべきやつがいるだろうと思ったが、確かに下心という点では排除されるべきは俺だ。お兄さんが正しかった。 「や、やっぱり俺と付き合うのやめたくなったか?」 不安になって尋ねると、一文字さんは目を伏せたまま首を振った。 「う、ううん。大丈夫大丈夫。ちょっと……、すごくドキドキしただけだから……」 そうやって一文字さんが胸を押さえながら恥じらっているのを眺めていると、なんだか変な気持ちになりそうだ。 こちらまでそわそわしていると、一文字さんは空気を変えるように大きな声を出して立ち上がった。 「そ、そうだ! せっかくプレゼントあげたんだから、開けてみてよ」 言われたとおりに鞄の中の包みを開く。 「これは……キーホルダーか?」 茶色い革のシンプルな飾りがついたキーホルダーだ。実用的なものを好む彼女にしては意外な気がした。 「うん、そうなんだ。……見て、ボクとおそろい」 彼女は家の鍵らしきものを持ってきて俺の目の前にぶらさげた。確かに、同じデザインの赤いキーホルダーが揺れている。 「ボクたち、会う機会少なくなったでしょ。だから、おそろいのものがあった方が寂しくないかなって」 俺は手の中のキーホルダーと目の前に揺れるそれを見比べながら、胸が熱いもので満たされるのを感じていた。 勝手にうじうじしていた自分が情けない。 今度は驚かせたりしないように注意しながら一文字さんの事をそっと抱きしめる。 「一文字さん。……好きだ」 ずっと好きだったはずなのに、素直な気持ちでそう口にするのは初めてだった。 腕の中の彼女も嬉しそうに返事をする。 「うん。ボクも好きだよ」 ようやく名実ともに相思相愛になれた気分だった。 幸せな気持ちに浸っていると、彼女が甘えた声で語りかけてくる。 「ねえねえ、ボクたち、付き合ってるんだからいつまでも苗字で呼びあうの変だよ。ちゃんと名前で呼んでよ」 名前。 確かに、付き合っていれば名前で呼ぶものなのかもしれないが、どう呼べばいいのだろう。 匠のようにちゃん付けするのはなんだか軽薄だし、急に呼び捨てにするのは馴れ馴れしいだろうか。 「茜、さん?」 迷った挙句にそう言うと、抗議するように背中を叩かれた。 「もう、ボクたち同い年なのにさん付けなんて変だよ。呼び捨てでいいよ」 そこまで言われてしまうともう逃げ場がない。俺は観念して呼びかけた。 「……あ、茜。好きだ。こ、これからも俺と一緒にいてくれないか」 抱きしめたままだったから顔は見えなかったが、彼女が満足して笑ったのがわかった。 「当たり前じゃない。ずっと一緒だよ、純くん」 ふわふわした気持ちのままで出された料理を食べ終えたころには雨も上がったようだった。 ちょうどいい頃合いだからそろそろ帰った方がいいだろう。 「もっとゆっくりしてっていいのに」 茜は名残惜しそうにそう言ってくれるが、きっと今の俺はゆるみきった表情をしているだろうし、こんな時にお兄さんと出くわした日には半殺しにされても文句は言えない。 それがわかっているのか彼女も俺の事をあまり引き止めず、代わりに大きな買い物かごを持って出てきた。 「ほ、ほら……もしかしたら、お夕飯の材料足りないかもしれないし……ついでに商店街行こうかなって……」 要するに、俺の家の近所まで着いてきてくれるということだ。 並んで家を出ると、彼女の家の庭の木々や踏み石が濡れてつやつやと光を反射しているのが目についた。 いや、それどころか何の変哲もない電柱やアスファルトさえ輝いて見える。 要するに俺もかなり浮かれているということだ。 浮かれついでに茜の手を軽く握ると向こうも握り返してくれて、まだ春なのにやたらと汗をかいてしまいそうだ。 「……ねえねえ、も、もし買いすぎちゃったら、家まで持つの手伝ってくれる?」 「あ、ああ。もちろんだ」 まだ家からそんなに歩いていないのに、既にそんなやりとりをするのは客観的にはどう見えるだろうか。 誰も止める者はいなかったから、俺たちはわざとらしく遠回りをしながら商店街へ向かった。 純に茜って呼ばせるの生まれて初めてなのですごい違和感……。 (茜ちゃんに初めて純くんって呼ばせた時も違和感あったのでそういうもんだとは思いますが) 主人公をA型にしてプレイすると茜ちゃんが毎回ときめいてこっちをデートに誘ってくるんですが、最終的に純とくっつくって事も4-5割くらいの確率であるんですよね。 その時裏ではなにが……っていう妄想の産物です。 2017/2/5更新 2017/2/9修正 BACK...TOP |