深海、天使、スケッチ


 まるで深海の中にいるようだった。
 ガーシュウィンのSomeone to Watch Over Me。
 ファイナルの1曲目で、ついに七海がマエストロフィールドを出現させた。
 舞台袖でその様子を見守りながら、俺は不思議とほっとした気分になっていた。


 この夏はいろいろありすぎて、2学期が始まってからもまだあれが現実だった実感がわかない。
 確かに俺たちは全国優勝を果たしたし、両親も盛大に祝ってくれはしたが、横浜天音の生徒にとっては冥加部長と天宮さんのいらっしゃるアンサンブルで優勝するなんて当然の事だ。
 数日たてば元通りの日常だ。
 ……いや、一つだけ変わった事がある。
 小日向が一緒に授業を受けるようになったことだ。
 関東大会が終わったあと、俺は実力不足からアンサンブルメンバーから外されそうになった。
 その時は小日向の取り成しでなんとか正チェリストの座にとどまる事が出来、ファイナルでも2曲目のシベリウス協奏曲のチェロパートを担当させてもらえることになった。
 小日向のおかげで演奏家ではなく、教師として音楽の道に携わるという夢を新たにもつことができた。
 今の俺は小日向のおかげであると言っても過言ではない。
 そんなあいつのことが女神に見えてしょうがないのも、今では感謝の念を超えて……その、恋愛感情を持つようになってしまったのも当然の事だろう。
 本当は俺はファイナルの前にあいつに告白しようと思っていた。
 一緒に下校して、二人きりになったタイミングで告白する。
 完璧な計画のはずだったが、ファイナル直前のあいつはやたら忙しそうだった。
 冥加部長が記憶喪失になってしまって右往左往していたり、七海が急に演奏能力が向上したくせになにやら悩んでいるのを熱心に相談に乗ってやっていたり……。
 俺があいつを呼び出す機会なんてまったくなかった。
 それに、他のメンバーの事であんなに心を砕いているあいつの姿を見たら怖くなってしまった。
 あいつには、俺よりもっと他の奴の方がふさわしいのではないか、と。
 その思いは2曲目に小日向がマエストロフィールドを発動させた時に確信に変わった。
 才能のない俺ではあいつに釣り合わない。下手に先走って告白なんてしなくてよかった。
 冥加部長や七海と付き合いだしたら笑って祝福してやろう。そう思った。


 しかし、幸い、と言っていいかどうかはわからないが、ファイナルが終わった後もあいつは特定の誰かと付き合い始めたという事はないようだった。
 そうなると俺のあの時の確信も揺らぎ始め、なにが正しい道なのかがよくわからなくなってきた。
 小日向は何も考えていないような顔をして今日も俺の隣の席で授業を受けている。
 音楽理論の授業は前の学校では習っていなかったとかで俺が教えてやる事が多いが、そのうち慣れて俺の助けもいらなくなるだろう。
 そうなる前に、行動に出るべきなのか?
 そんな事を考えながら、知らず知らずのうちに手元のルーズリーフに小日向の横顔をスケッチしていたようだ。
 黒板よりも横顔ばかり見ている俺に気付き、小日向が微笑んできた。
「!!」
 だから……その女神スマイルをやめろ!!


 放課後になったので、練習室へ行こうと早歩きで急いでいると、曲がり角で人にぶつかって鞄の中身が散らばってしまった。
「あ、……天宮さん! 失礼しました! お怪我はありませんでしたか?」
 なんたる不覚。俺は散らばった荷物を拾うのもそこそこに最敬礼する。
「ああ、いいよ別に。氷渡こそ怪我はしてないかい?」
 いつものように平坦な口調で言いながら、天宮さんは俺の荷物を拾おうとする。慌てて俺もしゃがみこむ。
「あれ。これは、小日向さんかい?」
「そ、それは……」
 先ほどのルーズリーフを手に持って天宮さんが微笑む。小日向が女神スマイルなら天宮さんは天使のような微笑みだ。
 穏やかで美しいが、感情は見えない。
「なかなか上手に描けているね。……そうか、氷渡は小日向さんの事が好きなんだね」
 事もなげに言われてしまい、俺は赤面するほかない。
「天宮さん……どうかその事はご内密に……」
「どうして? 同級生同士で恋に落ちる。美しいじゃないか。お互いの音楽にもいい影響を与えそうだ」
「そうなればいいんでしょうが……」
 しかし、実態は俺の片思いだ。小日向の演奏が俺に影響を及ぼす事はあっても逆は考えづらい。
「違ったのかい? まあ、1曲目は七海のために選んだみたいだったしね」
「どういう事ですか?」
 七海のため、という言葉を聞いて胸が痛んだが、俺は極力平静を装って質問した。ただ、この人は目の前の俺がうろたえたとしてもあまり意に介さなかっただろうが。
「今回のコンクールの曲はほとんど彼女が選んでいただろう? ファイナルの曲を選んだ理由を質問してみたら、Someone to Watch Over Meは七海が落ち込んでいるから元気づけるために選んだと言っていたよ」
「そう、ですか……」
「でも、2曲目は君が好きだからその曲を選んだと言っていたんだ」
 うなだれた俺の耳に飛び込んだ言葉が信じがたくて、俺はまじまじと天宮さんの顏を見た。
 確かに、2曲目で演奏したシベリウス協奏曲は俺の好きな曲の一つで、一緒に練習した時にそういう話をした事もあった。
「本当ですか?」
 にわかには信じがたいが、天宮さんはよくわからないことは言うが嘘はつかない人だ。きっと真実なのだろう。
「わざわざ君の好きな曲を選ぶくらいなのだから、彼女は君に恋をしているのかと思っていたけれど。氷渡がそういうのなら違ったのかな。人間って面白いね」
 そう言って微笑む天宮さんは、やはり宗教画の天使のようだった。


 天宮さんとそんな話をしたせいか、無性に小日向と音を合わせたくなった。
 もしまだ近くにいるようなら、一緒に練習できないだろうか?
 メールを送ってみたら、すぐに電話がかかってきた。
 今は山下公園で練習をしているが、俺と練習するなら屋上庭園がいい、との事だった。
 わざわざ学校に戻るのは面倒ではないかと思ったが、学校にいる俺に遠慮してそう言っている様子ではないようだった。
 俺は先に屋上庭園に向かう事にした。


「悪かったな、急に呼び出したりして。それに……わざわざ学校に来てもらったりして」
 エレベーターから降りてきた小日向にそう告げると、小日向は特に気にした様子もなく首を振った。
 そして、とんでもない事を言った。
「は!? 屋上庭園で練習したら俺ともっと仲良くなれる気がした!? ……お前、真顔でそんなこと言いやがって……俺がそう言ったら喜ぶとでも思ってるんだろ……!」
 本当はめちゃくちゃうれしい。
 しかし、そんなことを言った日には「もう一回言って」なんてからかわれるのがオチだからな……俺くらいになるとリスク回避もバッチリだ。
「それで、なにを演奏する?」
 俺が聞くと、小日向は迷いなくシベリウス協奏曲、と答えた。
「お前……ファイナルで演奏したばっかじゃねーか……よく飽きねえよな。別に、名曲だから俺は構わねえけど……」
 悪態をつく俺を、小日向はにこにこと見つめている。
 いや、違う。先ほどの天宮さんとの会話を思い出して胸の鼓動が早くなる。
 飽きるとか飽きないとかではなく、小日向は俺がこの曲を好きだから選んでくれているんだ。
「小日向」
 今ここで、小日向の本心を知りたいと思った。予想外にマジなトーンになってしまった呼びかけに、ヴァイオリンを構えようとしていた小日向が不思議そうな顔をする。
「俺は、お前が――」




twitterのお題bot*(@0daib0t)様のお題を拝借しました。
AS天音で全股プレイをやってみようとしたら、日数が間に合わず氷渡の告白イベントが起こせずに終わりました……。
でもコンクール前に告白イベントが起きなくても、折を見て告白して来てくれたらいいなあと思って書きました。

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