011:柔らかい殻


「あ、あの、先輩。これ……」
 話したこともない女子が俺にかわいらしくラッピングされたチョコを差し出してくる。
 この包みは先ほども見たことがあって、先ほどの女子は「頑張って作った」というようなことを言っていたからきっとこれも手作りなのだろう。
 目の前の女の子は勇気を振り絞るようにして俺に一歩近づいた。
「伊集院先輩に渡してください!」
 またそれか。
 俺は白けた気持ちになりながら、それは表面に出さないようにしてさわやかに微笑む。
 こういった日ごろの努力を怠らなければ、来年のバレンタインに彼女がチョコを差し出す相手はきっと俺になっているはずだ。たぶん。
「ああ、預かっておくよ。喜んでもらえるといいな」
 喜んでもらえるといいな、よりもきっと喜ぶよ、の方がよかっただろうか。どうせ伊集院がどういう反応を示すかはこの子にはわからないんだから。
 俺の心配をよそに、目の前の後輩女子は特に引っかかった様子も見せずほっとした表情になった。
 何度もありがとうございますと頭を下げて、一年生の教室がある階へと嬉しそうに戻っていく。
 俺もため息をついて教室に戻る。ちょっと休み時間に便所に行っただけなのにこれだ。
「おい伊集院」
 顔を上げたあいつに今しがた預かったばかりのチョコレートを手渡す。
「ああ、またか」
 せっかくのプレゼントになんの感動も示さない表情を見ていると、包みをその整った顔面に投げつけてやればよかったと後悔するばかりだ。
 ただ、それを本当に実行してしまったら瞬く間に悪い噂が流れるだろう、いやそれより先に私設軍隊に取り囲まれて何か恐ろしいことをされてしまいそうな気がする。
「それはこっちのセリフだ!」
 しょうがないので、俺はそう突っ込んで伊集院の肩を殴るふりをするにとどめた。
 この御曹司様は軽く俺の手が触れただけでも顔を赤くして怒り出す面倒な奴なのだ。
「まったく、なんでみんな俺に伊集院宛てのプレゼントを渡してくるんだよ」
「おや、みんなではないはずさ。直接トラックに入れていく生徒もたくさんいただろう?」
「…………」
 そんなのいちいち見てねえよ、と言ってやりたかったのだが、それこそ庶民の悲しい性というやつだろうか。好奇心半分やっかみ半分で、俺は廊下に出るたびについ窓の外をチェックしてしまうのだ。
 まだ昼休みにもなっていないというのに、校舎前に止められたトラックの荷台にはすでに山のようにチョコが積まれていた。きらめき高校の制服を着た女子生徒以外にも様々な年代の女性がトラックの周りにいたから、きっと近隣の住民なんかもチョコを渡しに来ているのだろう。
 伊集院家の御曹司が通う学校で、そんなにほいほい部外者を入れていいのか? とも思うのだが、どうせこいつは私設軍隊によって守られているんだ。
 誘拐された時だって俺が駆けつける前に助け出されていたくらいだ。なんの問題もないだろう。
「ところで庶民、そろそろ次のトラックを手配しないといけないタイミングだと思うのだが、集まり具合はどうだったかね?」
 伊集院は先ほどの包みを受け取った時とは打って変ったような嬉しそうな口調で俺に尋ねてくる。
 なんだよ。結局こいつだってチョコをたくさんもらえて喜んでるんじゃないか。
「好きにしろよ」
 大体、どうしてわざわざこいつは俺にそんな事を聞いてくるんだ? そういう事は外井さんだとか、伊集院家で働いてる人に任せればいいじゃないか。
 反応を楽しむような目つきが無性に腹が立つ。
「伊集院。チョコは量より質だぜ」
 そう嫌味を言ってやると、一瞬伊集院の顔に動揺が走ったのを俺は見逃さなかった。
 痛い所をついてやったぜと思ったのもつかの間、すぐにいつもの厭味ったらしい薄笑いが復活する。
「……ほう。そう言う君はさぞかし質のいいチョコレートをもらっているんだろうねえ。羨ましいかぎりだよ」
「…………」
 もちろんだが、そんなもん俺がもらっているわけがない。
 優美ちゃんには同じバスケ部のよしみということでチョコレートをもらった。しかも手作りだ。
 だがそれはバスケ部全員に配っているのと同じものだし、昨夜試食したらしい好雄が、俺が優美ちゃんの包みを持っているのを見て申し訳なさそうに拝んできたから、まあ、味は推して知るべしというやつだ。
 本当は幼馴染である詩織からのチョコも貰いたかったのだが、少し前に部活やらなんやらで忙しい時期があり、俺は詩織の事を怒らせてしまっていた。
 もちろん好雄から俺が詩織を傷つけたと噂になっている、と聞いた直後には謝罪の連絡を入れたし許しては貰えているはずだ。
 だが、他の友達の目を気にして一緒に帰ってすらくれないあいつが俺にチョコを用意してくれるか、というと絶望的だと感じていた。
「おっと、そろそろ次の授業が始まるようだねえ。君も早く席に着きたまえ」
 チャイムが鳴り、伊集院が得意そうに俺に指示してくる。お前が鳴らしてるわけじゃないだろうが。
「言われなくたってわかってるよ」
 従うようでなんだか釈然としないが、先生に怒られるのはもっと嫌なのでおとなしく自分の席に戻る。
 座る前にもう一度伊集院の方を見ると、いつの間にか現れている外井さんに先ほどの包みを渡しているところだった。


 そんな感じで俺にとっては特に心躍る出来事もないままにバレンタインを終え、一週間ほど経ったある日。
 いつものように登校して机に鞄を置くや否や好雄が俺の席までやってきた。
「理由は聞いてくれるな。お前、今度の日曜、俺の家に遊びに来いよ」
「はあ? なんで俺がお前の家に遊びに行かないといけないんだよ」
 せっかくの部活のない日曜日、男なんかの家に行くよりももっと有意義に過ごしたい。俺は遠慮なく迷惑そうな顔をしてやったのに、好雄は必死な表情で頭を下げる。
「頼む! どうせお前、予定ないんだろ? 俺を助けると思って来てくれ!」
「はあ……」
 好雄は今にも土下座しそうな勢いで、クラスメイトの視線が痛い。
「……いいよ。行ってやるよ」
 ここで断ったら、今度は好雄を傷つけた、と噂が流れてしまいそうだ。俺が仕方なくそう言うと好雄は一瞬で明るい表情になった。
「おお! 本当か? いやー持つべきものはやっぱり親友だな!」
 白々しい言葉を聞いているとなんだか嫌な予感がしてくる。理由は聞くな、とは言われたがもう少し詳しく話させるべきだったかもしれない。
「なあ好雄。おまえ、いったい何を企んで、」
「おおっと! 俺、ちょっと女の子と約束があるんだった! それじゃあ今度の日曜日にうちに来てくれよな!」
 わざとらしく叫ぶと、好雄は廊下へと駆けて行った。どうせ約束なんて嘘だろう。あいつにそんな浮いた話があるものか。
 そうは思ったが、出遅れた俺は追いかけるのをあきらめてむなしくため息をついた。


 日曜日。約束をすっぽかすわけにもいかず、俺は律儀に早乙女宅のインターフォンを鳴らした。俺って友達思いだなあ。
「あ、先輩。いらっしゃーい。お兄ちゃんはキッチンにいるから、とりあえず入ってくださいね」
 好雄がキッチンに? カップラーメンでも作ってるのか。
 そう思いながら玄関に一歩入ると、やたら焦げ臭い匂いと甘い匂いが入り混じって俺の鼻を刺激してくる。
 俺を好雄の部屋に案内するために先を歩く優美ちゃんのポニーテールは、俺の不安な気持ちとは反対に楽しげに揺れている。
 この子はこの廊下に漂う匂いをどう考えているんだ?
 俺が尋ねる前に、優美ちゃんは満面の笑みで好雄の部屋の扉を開けた。
 なんとなくあいつはいつも駆け回っているイメージがあったから、部屋も落ち着きなく雑然としているのではないかと思ったが意外と整頓されていた。
 そうでなければせっかく集めた情報も役に立たなくなるという事なのか。
「さ、先輩! そこに座って待っててください」
 床に置かれた座椅子に俺が座ると、優美ちゃんはいそいそと部屋の外へ行き、やがて黒い塊が盛られた皿を持ってきた。
「じゃーん! クッキーです。どうですか?」
 どう見てもこの黒さはココアとかの食べ物に由来する色ではなく、ただの炭の色だ。
「う、うん。よく焼けてるね……」
 俺にはそれしか言いようがなかったけれど、優美ちゃんは褒められたと解釈して得意そうに胸をそらした。
「どうぞ召し上がれ!」
「あ、いや、とりあえず喉が渇いたから先に何か飲みたいかな……」
「あっ、そうですよね! それじゃあ優美、コーヒー淹れてきまーす!」
 この炭を食べながらコーヒーを飲む? 俺はこんな場所に呼び出した好雄を激しく恨んだ。
 理由は聞くな、と念を押していたことから考えるに、最初からこの炭を食わされることはわかってたはずだ。
 好雄が来たら文句を言ってやらなくては。そう思ったが、優美ちゃんが開けっ放しで出て行ったドアの向こうからはなにやら言い争っている声が聞こえてくる。
 戻ってくるまで時間がかかりそうだ。
 だからと言って目の前にある黒い物体をつまむ気持ちになれず、心の中できらめき高校の校歌を歌いながらひたすら待つ。
 それで5回くらい歌い終えたころ、ようやく好雄と優美ちゃんが揃ってやってきた。
「先輩ごめんなさーい。お兄ちゃんが、邪魔するなって言ってキッチン使わせてくれなくて」
「よう! よく来たな」
 へらへら笑う好雄に文句を言ってやろうと思ったが、ちゃんとした色に焼けたクッキーが載った皿と空のグラスとオレンジジュースのペットボトルを器用に持って立っている。
 とりあえず、炭以外のものも食べられそうで安心する。
「まあ、とりあえずジュースでも飲めよ」
「ああ……」
 優美ちゃんは好雄が来たら退散するものかと思っていたのだが、どこからか座布団を出してきて俺の斜め前に座った。
 好雄はそんな優美ちゃんを追い払うでもなく俺たちの前にグラスを置き、ジュースを注ぐ。苦いクッキーの後はこれで口直ししろということだろう。
「いただきます」
 さっき喉が渇いているといったのは当然その場逃れの嘘だったのだが、久々に飲んだ冷えたジュースはやっぱりうまく、一気に飲み干してしまった。
「おお、いい飲みっぷりだな。ささ、これも食ってくれよ」
 すかさず空いたグラスにジュースを注ぎながら好雄が二色のクッキーを俺に勧める。
「先輩、早く食べてください」
 これが好雄だけならまともな色の方だけを食ったのだが、優美ちゃんが期待に込めた目で見てくるので俺は逃げられない。
 根性だ。
 虹野さんのような事を考えながら、一気に俺は焦げた塊を口に運び、薬を飲む時のような気持ちでどうにか胃に収める。
 口直しにオレンジジュースを飲むが、炭の苦さとオレンジの苦さが混ざり合ってあまりいい後味ではない。
 救いを求めてもう片方のクッキーも口へ運ぶ。
 ほのかに温かいそれは、もちろん炭と比べると数倍うまい。
「どうだ?」
「どうですか?」
 こうやって並ばれると、確かに兄妹そっくりだ。まっすぐな視線に耐えられずに俺は目をそらす。
「う、うまいよ」
「どっちがですか!」
「ど、どっちもかな……」
「ええー!」
 優美ちゃんは不満そうにふくれっ面をし、好雄も納得いかない様子で皿の上を見ている。
「お前、正直に言えよ。絶対こっちの方がうまいだろ」
「…………」
 たぶん、色がきれいな方のクッキーは好雄が今作ったものなのだろう。
 ずっとキッチンにこもっていたことだとか、クッキーにまだぬくもりが残っていたこともそう考えると説明がつく。
 しかし、優美ちゃんの気持ちを考えると、というか優美ちゃんの事がなくたって、好雄の手料理というだけでなんとなく褒める気はなくなるというものだ。
「好雄、お前、手料理を披露するためにわざわざ俺を呼んだのか?」
「俺が作ったってばれたか?」
 悪びれずにそう言って好雄は笑う。
「ほら、こないだのバレンタイン、優美のチョコひどい出来だっただろ」
「ひどくないもん! ねー、先輩?」
 優美ちゃんは俺にそう言ってくるが、もちろん正直な感想は言えず、俺は引きつった笑顔を浮かべて先を促すしかない。
「で、だ。俺が兄として優美にちょーっと物申したんだが、そうしたらどういうわけかクッキーを作って対決することになっちゃったんだな」
 要するに、俺は兄妹ゲンカに巻き込まれたってわけか。ああ、バカバカしい。
「こんなことなら、伊集院に電話でもした方がマシな日曜日だったぜ……」
 俺がつぶやくと、同じ形をした丸っこい目が一気にこっちを向いた。
「な、なんだよ」
「前から聞きたかったんですけど、伊集院先輩の親友だってほんと? 毎週電話するくらいの仲だってみんな言ってますよ」
 いつの間にそんな噂が流れてるんだ。俺はジュースを吹き出しそうになった。
「ま、毎週なんて電話するわけないじゃないか。部活もあるし、せいぜい2週間に1回だよ」
「それでも十分多いだろ……」
「やっぱり仲良しなんだー」
 いや、まったく仲良しではない。そう訂正したかったのに、優美ちゃんは無邪気に笑いながら続けて言う。
「バレンタインの時ね、伊集院先輩に直接渡したいけど緊張するって言ってる子が何人もいたんだ。それで優美、先輩なら親友らしいから先輩から渡してもらったらいいんじゃない? ってアドバイスしたんですよ。よかった、嘘の噂じゃなくて」
 やたら一年生の子が俺にチョコを預けてくると思ったら、優美ちゃんのせいだったのか。
 というか、根も葉もない噂かもしれないと思うならそんなアドバイスするなよ。
 優美ちゃんはそんな俺の複雑な気持ちは全く想像してない様子でにこにこしている。
「先輩、ちゃんと伊集院先輩に優美の友達のチョコ渡してくれました?」
「もちろん渡したけどさ……」
「けど?」
 俺はチョコを渡した時の全く嬉しそうではない様子を思い出したのだが、優美ちゃんの友達だと知っているのに言う気にはなれない。
「いや、伊集院のやつ、たくさんチョコもらってたみたいだからさ、全部食い切れるのかなーって」
「確かになー」
 相槌を打ちながら好雄は自分の作ったクッキーを食べている。兄として妹の作った方も食えよ。
「うーん、でも、やっぱり好きな人に渡せたって事が大事なんですよ。たぶん優美の友達だってあのトラック見ちゃったら、ちゃんと食べてもらえるなんて期待してないと思います」
 優美ちゃんにしては大人な意見だ。好雄も驚いたようにクッキーを手に持ったまま優美ちゃんをまじまじと眺めている。
「……優美、悪いもんでも食ったのか?」
「なにそれ! 優美だってもうすぐ2年生になるんだもん、それくらいわかるんですよーだ!」
 さっきの大人びた発言とは裏腹に、好雄に向かって舌を出す優美ちゃんはやっぱりいつもの優美ちゃんだった。


 俺と伊集院が親友同士だなんて噂を聞かされて、その時はもう二度とあいつに電話なんかするもんかと思ったはずなのに、気が付くと俺は受話器を手に持ち、既に覚えてしまった番号を押していた。
 期末テストを前にして俺の神経も相当参っているようだ。
『伊集院だが』
 あいつが出る前に切ってしまえばよかったのだが、俺よりあいつの反射神経の方が上だったようだ。
 さすがに無言で切るような陰湿な真似はできず、あきらめて口を開いた。
「よう。テスト勉強はしてるのかよ」
 そういえば、前のテスト前にこいつが唐突に電話をかけてきて俺にそう尋ねてきた事があったなと言ってから思い出した。
 その時の仕返しをしたかったわけではないのだが、伊集院に鼻で笑われてなんとなく出鼻をくじかれた気分になる。
『テスト勉強? 君、日ごろから予習と復習を欠かさなければわざわざテスト前に慌てることはないのだよ』
 以前詩織も似たようなことを言っていたが、同じ内容でも伊集院の声で聞かされると全然違った印象だ。ただただ腹立たしい。
「へえー、それでお前は暇を持て余してかかってきた電話に飛びついたってわけだ」
『そ、そんなわけないだろう! ……全く、庶民の発想というものは僕には理解できないな……』
 受話器越しに声を聞いているだけで伊集院が動揺して顔を赤くしているのがわかる。俺は声を出さないようにして笑った。
 それが伝わったのかどうなのか、伊集院は不機嫌そうな声のまま続けた。
『僕は今、ホワイトデーのお返しのリストをチェックしていたところさ。君のようにチョコをもらう事の少ない庶民には想像もできないと思うが、たくさんの女性に返さねばならない僕にとっては一苦労なのだよ』
「そんなの、適当でいいんじゃねえか?」
『何を言っている。せっかく女性が贈り物をくれたというのにお返しをしないというのは、伊集院家の名に泥を塗るようなものさ。それも、きちんと贈られたものに見合ったものを選ばなければね』
 ということは、中身をすべて開けて確認しているということなのか。俺は少し驚いた。
「ふーん。もらったもんは全部まとめて処分でもしているのかと思ったぜ」
『……まあ、万が一のことも考えて僕の口に入る事はほとんどないが……一応誰からどういったものが送られているのかは僕自身で毎年確認しているよ。それが礼儀と言うものだ』
 少しバツの悪い口調なのが意外だった。
 伊集院の事だから『この高貴な僕が贈り物をむやみに口にするわけがないだろう』くらいは言うと思っていた。
 ただ、考えてみれば伊集院は女子には親切だ。
 それを考えると当然のような気もしたし、だったらバレンタインの日の白けた様子はなんだったんだという気もしてくる。
 いや、でも俺にチョコの数を自慢しているときはこいつも楽しそうだった。チョコの数さえ集まれば個々のチョコには興味がないのか?
 わからなくなった俺は、直接疑問をぶつけることにした。
「なあ、お前、バレンタインって楽しいか?」
『…………』
 質問が唐突すぎたせいか伊集院の返事がすぐに返ってこない。質問の仕方を変えた方がいいだろうかと頭をひねっていると、伊集院がため息をついたのがわかった。
『……おかしな事を。日本のバレンタインは女性が男性に気持ちを伝えるための行事だろう。僕たちが楽しむものではないはずだ』
「そうか? でも、俺たちだってチョコを貰えたら嬉しいだろ」
 知った風な口をきいてみたが、今年俺がもらったのは優美ちゃんからの一個だけだったわけで、そんな俺が伊集院に物申すのは釈迦に説法と言うかなんというか。
 どんな嫌味が返ってくるのかと待ち構えていたら予想外に沈んだ声が返ってきた。
『君のような庶民からしたら、トラックに積みきれないほどのチョコを貰える僕が羨ましいんだろうね』
 直接顔を合わせているときにこう言われたら、いつもの嫌味だと解釈していたと思う。
 しかしこうやって伊集院の声だけを聴いていると、なんだか寂しい響きに感じた。
 だから俺も少しは素直な気持ちになって返事をした。
「正直、人気者なのは羨ましいよ。……だけど、そうやっていろいろ気を回すのは大変そうだなって言うか……だから俺がチョコを渡しても嬉しくなさそうだったのか?」
『そういうわけではないのだが……』
 煮え切らない口調だ。
「なんだよ、言えよ」
 普段の伊集院だったら『庶民にそこまで話す義理はない』くらい言いそうなもんだった。だが、それをしなかったのは伊集院も大量のリストの処理に疲れていたんだろう。
 期末テスト対策に疲れて伊集院にかけてしまった俺と同じで。
『……どうせ、彼女たちは僕の愛情が欲しくてチョコを用意しているわけではないだろう。どんなに熱烈なメッセージカードが添えられていたところで、翌年、翌々年のバレンタインには別の男性と手を繋いでいる。そういうものさ』
 突き放すような口調に、チョコを作ったわけではない俺でさえ冷水を浴びせられたような気持になった。
「そ、そんなことないだろ」
 思わずそう返したが、確かに俺自身後輩からチョコを預かりながら来年は俺宛に持ってきてくれればいいのにと思っていた。
 どうせ長続きするわけのない気持ちなんだしと。
 さらに俺は優美ちゃんの言った事も思い出す。
 女の子の立場からしたら、好きな人にチョコを渡せさえすれば、食べてもらえなくても満足なんだろうと言っていた。それを聞いた時は健気だと思ったが、毎年さまざまな女の子からの気持ちを向けられる伊集院はどういう思いでいたのだろう。
「いや、でもさ、お前だって女の子ともうちょっと歩み寄ればいいじゃないか。そうすれば……」
 そうだ。
 伊集院はいつも女子には優しいが、一線を引いた付き合いで本心から仲良くしようとする姿を見た事がない。
 いくら表面的には社交的にふるまっているからって、そんなんだから伊集院は孤独なままなんじゃないのか。
『そういう問題ではない』
「…………」
 不機嫌そうに切り捨てられて、本当はもっとなにか言わないといけないのに、俺は自分の心に浮かんだセリフに驚いてそれどころじゃなかった。
 伊集院が孤独だって?
 あの嫌味ばかり言って、うるさい高笑いを響かせているこいつが?
 しかし、こうやって受話器越しに聞く伊集院の声は俺が認識していたものよりもだいぶ柔らかく、孤独と言う言葉がよく似合う気がした。
『おい庶民、まさか寝てしまったんじゃないだろうね? 明日からはテストだというのに、まったく……』
「お、起きてるよ」
 説教されてはかなわないと思って俺は慌てて返事をした。
「悪い、虫が出たんでちょっと捕まえてた」
『虫? 庶民は自分で虫を退治しないといけないなんて、哀れな生き物だねえ。僕の家なら、たとえ虫が入り込んだとしても使用人が金のハエ叩きで……』
「…………」
 いつもの嫌味が今は気持ちを隠すための鎧のように思える。
 不用意に口に出してしまった本心を、もうこれ以上は追求しないでくれという合図のようにも。
「俺はそろそろテスト勉強に戻るよ。お前もリストのチェック頑張れよ。じゃあな」
『あっ、待ちたまえ!』
 俺はわざと音を立てて受話器を置く。今日は長電話になってしまったから、そろそろテスト勉強に戻らないといけない。
 勉強机に向かってみたが、いつまでも伊集院の声が耳の奥に残って離れなかった。


 そんなわけで全くテスト対策ができなかった俺は赤点も覚悟していたのだが、どうにか平均よりやや下程度に収まってくれたようだった。
 俺はほっとしながら今日も部活に励む。
「先輩、差し入れです! 食べてください!」
 好雄に負けてムキになっているのか、優美ちゃんはあの後も頻繁にクッキーを作っては配り歩いているみたいだった。
 練習を終えて更衣室に向かおうとする俺に笑顔でタッパーを差し出してきた。ラッピング用品はもう尽きてしまったようだ。
「え、えーと……」
 テストが終わった開放感から自主練なんていうものに励んでいたのがまずかった。
 ひたすら1人でシュート練習をしていた間に他の部員はみな帰ってしまい、俺だけが体育館に取り残されていた。
 他の奴らがいればどうにかそっちに優美ちゃんの意識を向けさせたい所だったんだけど。
 しかし、タッパーの中を見ると、今日のものはいつもとは違ってきれいなきつね色をしている。
 激しい運動で腹が減っていた俺は、ふらふらと吸い寄せられるようにその中の一枚を口に運んだ。
「う、うまい!」
 思わず叫ぶと、優美ちゃんは嬉しそうに笑った。
「やったー! これ、昨日虹野先輩と一緒に作ったんです! この前虹野先輩にもクッキーあげたら、ぜひ優美とクッキー作りたいって言われちゃって」
 ……虹野さんの監視付きで作られたクッキーか。そりゃうまいはずだ。
 虹野さんの苦労は並々ならぬものだったと推測されるが、まあきっと持ち前の根性で乗り切ったんだろう。
 それにしても、優美ちゃんと一緒に作ったって事は、もしかして虹野さんが好雄の家にお邪魔したって事なのか? 好雄め、うらやましい奴だ。
「ほら見てください、虹野先輩、優美のためにおすすめのレシピも書いてくれたんですよ」
 よっぽど褒められたのが嬉しかったのか、有頂天と言った様子で優美ちゃんが四つ折りにされた紙を広げて見せてくれた。
 かわいらしく整った字で、「粉は絶対ふるう事!(焼いた後も小麦粉の塊が残っちゃうよ)」など細かく注意書きが書いてある。
 これを見ながら作ればいくら優美ちゃんでも永久にクッキー作りに失敗することはなさそうだと思えた。
「よかったね、優美ちゃん」
 俺がそう言うと、優美ちゃんは満足げに紙を畳んでポケットにしまった。
「お兄ちゃんもぎゃふんと言わせることができたし、先輩にもおいしいって言ってもらえたし、優美嬉しいです。ちゃんとこの紙、来年までとっとかなきゃ」
「え、来年?」
 優美ちゃんは来年までこのレシピを封印するつもりなんだろうか。
 せっかくうまく作れるようになったんだから、これまで以上の頻度で作るんじゃないかと思っていた俺は驚いて聞き返す。
「だって、ここずっとおやつはクッキーばかりだったから、優美飽きちゃった。次に作るのは来年のバレンタインでいいかなって」
 ぺろりと舌を出す優美ちゃんの顔を見ていると、きっとその頃には虹野さん渾身のレシピもなくしてるんだろうなと簡単に想像がついた。
 俺は来年の惨事を予想して身震いする。貴重な資料をうかうかと失わせるわけにはいかない。それに、俺も少し考えていたことがあった。
「……優美ちゃん。ちょっと頼みがあるんだけど……」


 やっぱり虹野さんはすごい。ぶっつけ本番だったのに、俺にもどうにかまともなクッキーを生み出すことができた。
 さすがに女の子向けのラッピング用品コーナーに足を踏み入れるのは気が引けたからどうしようかと頭を抱えたけど、台所をうろつく俺を見た母親がちょうどいい袋があると出してきてくれたから助かった。
 俺の手のひらより一回り小さいその袋は、透明な地に真っ赤なハートが乱舞しているという少し恥ずかしいデザインだったが、それはまあしょうがない。大事なのは中身だ。
 形よく焼けているものを袋に入れてセロテープで封をする。
 それをそのまま学生鞄の中に入れようと思い、いやでも教科書に押されてつぶれでもしたらと考え直して厳重にタオルでくるんでから入れ直した。
 そのせいで持っていくべき教科書を少し減らす羽目になったが、それはどうにでもなる。
 俺はいつもより大事に鞄を持って学校へ向かった。バレンタインの時の女子もこういう気持ちだったんだろうか。
「やあ、おはよう」
 ホワイトデーのお返しを配る関係なのか、伊集院はいつもより早めに学校に着いていて外井さんたちに指示を出していたようだった。
 ちょうど人がはけたタイミングだったので俺も片手をあげて近寄る。
「よう」
 電話であんなやり取りをした後も伊集院は変わらず伊集院のままだった。今となっては、あれは疲労が見せた夢だったのではないかと思っているくらいだ。
 伊集院は今日も高慢ちきな表情で髪をかきあげる。
「君にはわからない苦労だと思うが、お返しをする相手が多くて大変だよ。何しろ、臨時で手伝いの者を雇う羽目になったくらいだからねえ」
 去年の俺だったら大変なのは外井さんたちだろと突っ込んでいるところだったが今年は違う。
 俺は伊集院のどうでもいい話を聞き流しながら鞄の中からクッキーの入った袋を差し出す。
「ほら。やるよ」
「……一体どういう風の吹き回しなんだい? 君が僕にクッキーなど……しかも、手作りじゃないか。この袋は自分で用意したのかね?」
「家にあったんだよ」
 こんな派手なハート柄をこいつのために用意したなんて思われたらたまったもんじゃない。
「ほう……。しかし、わざわざ僕に渡すなんて、よっぽど渡す相手がいないようだねえ」
 憎まれ口を叩いているわりに、伊集院は素直に包みを受け取り、しげしげと眺めた後に封を開けて中身を口に運んだ。
「あっ」
 こいつ、伊集院家の大事なご令息のくせに毒見とかしてもらわなくていいのか。女の子からもらったチョコはほとんど食わないって言ってただろうが。
 しかしそれを言ってしまうとこいつはまた顔を赤くして騒ぎ立てるんだろうし、それで私設軍隊でも呼ばれて怪しい食い物を食わせた不届きものとして処分されるのも避けたい。
「なんだね?」
「いや……うまいか?」
 不審そうな顔をしている伊集院に無難に問いかける。
 けちょんけちょんにけなされるんじゃないかと思ったが、伊集院は急な贈り物に困惑していてそこまで気が回らないようだった。
「まあ、庶民にしてはまずまずと言ったところか。頑張ったじゃないか」
「はあ……」
 こいつにとっては最大級の褒め言葉なんだろうが、なんだかなあ。まあ口に合ったようなら何よりだ。
「それで、これはいったいどういうつもりなんだね? 君もホワイトデーのお返しが欲しいとでも言うつもりかい? それなら今から外井に言って……」
「いらねえよ」
 いつもの伊集院と話していると、せっかくクッキーを用意した自分が馬鹿らしく感じて、伝えたかった事もうやむやになってしまいそうだ。
 別にそれでもいいんじゃないかという思いが頭をかすめたが、俺が今まで客観的に見て伊集院の親友だと思われる振る舞いをしていたのならば、もう少しだけそれを続けてみよう。そう決めていた。
「だったら何のために、」
「お前がバレンタインの時に寂しそうに拗ねてたからだよ。どうせみんな本気じゃない、とかなんとか言ってさ。男友達からの心を込めたプレゼントってのも悪くないだろ?」
 俺がそう言ってやると、案の定伊集院は真っ赤になって目を見開いている。
「だ、誰と誰が友達だと……! 寝言は寝てから言いたまえ!」
「俺も勘弁してほしいが、みんなそう思ってるみたいだぜ。もう諦めて受け入れた方がいいんじゃないか?」
「なっ……」
 間抜けに口をぱくぱくさせている伊集院の顔を見ていると笑えてしょうがない。いつも偉そうに澄ましているからいい気味だ。
 もっとそうやって嫌味な仮面を取り払って素直な感情を出せばいいんだ。
 そうすれば、きっと俺たちは本当の親友にもっと近づけるだろう。……なんてことまでは、さすがに恥ずかしすぎて口には出せないけど。
「伊集院、クッキーもっと食えよ。お前のために作ったんだぜ」
「こ、これはホワイトデーのついでだろう。適当なことを言うんじゃない」
「違うよ」
 確かに優美ちゃんにはチョコをもらっていたが、彼女はクッキーはもうたくさんだと言っていたからイチゴ味の飴を買って用意していた。
 イチゴ柄のTシャツを持ってるから味も好きだろう、なんていう安直な発想だが。
 そういうわけで、そのクッキーは正真正銘伊集院のためだけに焼いたものだ。
「そうそう、俺はちゃんと来年も再来年も作ってやるから安心しろよ」
 それを聞いて伊集院は複雑そうな顔になった。少し傷ついたような、でも、やっぱり嬉しいような。
「さ、再来年は卒業しているだろう。君はやはりいい加減な男だな……」
 せっかくの好意を疑われるのは腹立たしいが、こいつも本命チョコをくれた女の子が次の年には……という光景を何度も見ていたらしいし、すぐに信用できないのもしょうがないだろう。
 なにしろ親友らしいので俺は寛大に許してやる事にした。
「まあ、行動で示してやるさ。俺はお前とずっと仲良くしてやるってな」
「……なにも知らないくせに……」
 暗い声で呟く伊集院は、まだ俺の知らない面をたくさん、巧妙に隠しているのだろう。
 それはおいおい知っていけばいい。どうせ卒業まで逃げられやしないんだ。
 このまま交流していけばきっと卒業のころにはすべて打ち明けてくれるだろうという予感があった。
「ほら、もっと食えって」
 気味の悪そうな表情をしながら伊集院はクッキーをもう一枚口に運ぶ。
「そんな顔するなよ。俺の作ったクッキーがまずいみたいじゃないか」
「君がおかしなことばかり言うからだろう。まったく……」
 伊集院の口の中でクッキーがさく、と音を立てては飲み込まれていく。俺はなんだかおかしくなってきた。
「なあ伊集院、それ食い終わったら教科書貸してくれよ。スペアあるだろ?」
「小学生じゃないんだから、授業に必要なものくらいきちんと管理して持ってきたまえ」
 そうは言っていても、伊集院が俺に力を貸してくれるのはもうわかっている。
 俺は目を細めて伊集院が外井さんを呼びつけるのを眺めていた。




 自由に恋愛できない伊集院にとって、女の子たちから受け取るチョコだとか好意だとかはどういう風に感じていたんだろうか……っていうことを考えてたんですがなんか当初の予定とは違った感じになったかもしれない。
 本当はときめきの放課後の卒業式イベントの話題も入れたかったんですが入れそびれた。

2017. 3. 4更新

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